「……アストラルが……この体が、消滅?……死ぬってことか……?」
『魂の消滅が死とイコールなのであれば、確かにそうなります』
「ふっ、ふざけるなよ! 簡単に死ぬとか言ってェッ!」
激高し、頭上めがけて飛びかかった赤黒い爪が空を切り、上昇したワンが高みで無情に光る。流動に押されてよろけたユキトはかろうじて踏みとどまり、紅潮したねじれ顔を上げて怒声を震わせた。
「……モンスターに殺されかけたと思ったら、今度は苦しみながら怪物になって死ぬだって? 冗談じゃないってんだよッ! くそッ、この手を……この右手を切り落とせばいいのかッ?」
『そんなことをしても無駄です』
変貌した右手にかみつく左手を見下し、ワンは冷たくきらめいた。
『――魔人化はすでに全身で進行しているのですから。だからこそ、あなたは先刻の戦闘であれだけのパフォーマンスを発揮できたのです』
「……あのスペシャル・スキルを使ったから、こんなことになったのか! こうなることを知っていながら、お前は――」
『いささか混乱なさっているようですが、デモニック・バーストはデモン・カーズ発動によって使用可能になっただけです。あなたの設定は、このゾーンに強制転送された時点でHALYが組み込んだもの。デモニック・バーストを使用するしないに関わりなく、こうなる運命だったのです』
「HALY!……またHALYかッ!」
『少々説明させていただきますと、デモニック・バーストはデモン・カーズを活性化させます。つまり、デモニック・バーストを使用してパワーアップするほど魔人化が進行し、だるさやめまい、疼痛がひどくなっていきます。アストラル自体もダメージを受けますので、リアルボディに戻ったときに認知機能障害等が生じる可能性があります。もっとも、ここから出ることはできませんが』
「こ、この……!」
黒い腫瘍のようなこぶしが振り上げられ、ぶるぶる震えたが、ワンは気にせずテキストを棒読みする調子で続けた。
『余命は、およそ半年から1年くらいでしょう。ですので、残された時間を有意義に過ごされることをお勧め致します』
「い、いい加減にしろよッ! 何でこんなことするんだよッ!」
『すべてはHALYによるもの。私では分かりかねます』
「狂ってる! 何もかもッ!……」
ふらついたユキトは後ろの木にどっと背中をぶつけてもたれ、垂れた頭を左手でかき上げて黒髪を波立たせた。ひび割れた樹皮がうごめき、凍り付いた背中をブレザーの上からこする。悪い冗談でも脅しでもない――モンスターに殺されかけたすさまじい体験が、厳然たる事実だと突き付けていた。
「……どうして、こんな……!」
頭皮が裂けそうなほど爪を食い込ませ、歯がみしてユキトは怒りと恨みをきしらせた。仲が冷え、惰性で結婚生活を続ける両親――砂をかむような学生生活――慢性的な不況で鬱屈した社会――そして強制転送――いら立ちを募らせながら漂流する灰色の生に潤が鮮やかな色を加えたかに思えた矢先、まさかこのような宣告を受けるとは思ってもいなかった。
「……これは……なんだろ……?」
『何でしょうか? もう少し大きい声で、はっきりとお願い致します』
「これはHALYってヤツが決めた設定なんだろッッ!」
ばっと顔を上げたユキトは膨れた黒い右手を突き上げ、激情たぎる目でワンをにらみつけた。
『はい。このゾーンの管理者であるHALYが定めたことです』
「……それは一般的なゲーム・ゾーンとかと同じように、その中でだけ適用されるものだよな?」
『おっしゃる通りです』
「だったら――」ユキトは目をむき、吠え立てた。「このゾーンを出れば、こんなクソ設定消えてなくなるってことだなッ!」
『このゾーンから出ることはできません』
「うるさいッ! 出てやるさ……勝手にくっつけられた設定に殺されてたまるかッ!」
『加賀美潤から着信が入っています』
「はっ?――」
テクノポップなコールにばっと背中を離し、視線を下げると、コネクトがウインドウを開いて潤からのイメージ・コネクトに応答するかどうか尋ねていた。
「――イ、イメージ・コネクトってテレビ電話だろ? こんなときに……」
『そのように髪が乱れ、顔がゆがんでいると怪しまれますよ』
「くっ!」
ユキトがナックル・ガントレットを再装着して変貌した右手を隠し、ネクタイごと胸を押さえて呼吸を整え、冷や汗がにじんだ顔をこすって髪を撫で付けてから応答の意思を持つと、回線がつながってウインドウに潤のバストアップが映る。
「や、やあ」
『ユキト、遅いけれど、どうかしたの?』
「いや、別に……ごめん、ちょっとのんびりしちゃって……」
ユキトはナックルダスターに左手を重ね、目を泳がせながら弁解した。すると、ウインドウがワイドになって画面がニ分割され、潤の横に映ったジョアンがからかう。
『もしかしてbigな方か、ユキト?』
「ち、違うよ!――心配かけてごめん。すぐに合流するよ」
『早くしてよね』ウインドウが縦に伸びて画面がぴったり三分割され、2人の上にむすっとした紗季が映る。『新田さんたちも心配してるんだから』
「分かってるよ! すぐに合流するって言ってるだろっ!」
『……そんな怒らなくたっていいじゃない』
「あ、いや、ごめん……とにかく、すぐに行くから……それじゃ……」
半ば一方的にコネクトを終了させたユキトは苦しげに息を吐き、薄暗がりで黒ずんだ鋼を見て目元を引きつらせた。
「……そのうち、全身があんな風になるのか……?」
『はい。進行に比例して変わっていきます』
「……死ぬ……アストラルが崩壊するのは、完全に魔人化したときなのか……?」
『完全に魔人化したからといって、すぐに死ぬとは限りません。どのくらい持ちこたえられるかは、そのときの生命力次第です』
眉間に苦悩を刻んだユキトは、思いつくまま質問した。それによると、デモン・カーズはアストラルを蝕みながらこの体を変えていくが、精神を侵しはしない――少なくとも直接的には――こと、魔人化が進行するほどデモニック・バースト時に強力な力を発揮できることなどが分かった。
「……それで、このことは表示されるのか?」
『どこにでしょうか?』
「プロフィールに表示されるのかってことだよ! 佐伯さんみたいに特記事項にヤマト主義者だって表示されて、アドレスブックに相互登録しているメンバーに知られるのかって聞いてるんだッ!」
『HALYが施した特別な設定は、非表示になっています』
「……お前の口から漏れることは……」
『むやみに口外するつもりはありません』
「……そうか……」
ユキトは苦い唾をごくりと飲み、下唇をぐっとかんでうつむき、揺らめく下生えがのろのろ流れていく中に視線を落とした。
(……右手のことは、誰にも知られちゃいけない……)
みんな普通の姿なのに自分だけ怪物になっていったら……潤だって変わらず接してくれるかどうか……――恐れを患い、ユキトは沈んだような息苦しさを覚えた。
(……それに、あのヤマト主義者だ……)
佐伯を思い浮かべ、奥二重の目が細く、険しくなる。純血日本人を尊び、それ以外を低く見るイデオロギーに照らしたとき、魔人化していく者はいかなる扱いを受けるのだろうか?
「……絶対に出てやる、ここから……!」
『このゾーンから出ることはできません、斯波ユキト』
無機的な反応を無視すると、ユキトはヘブンズ・アイズを開いて新田たちの現在位置を確かめ、追いすがらんばかりの勢いで歩き出した。体のだるさを押して足を速め、下生えを蹴るユキトに薄暗がりは獲物をゆっくり飲み込むように蠕動し、次第に影を濃くする行く手を不明瞭に揺らめかせていた。
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