Overture 揺らぐ世界

 世界が――世界そのものが陽炎のごとく揺らめき、流れていた。

 不意に木々が鉛色の空に伸ばした稲妻状の枝をざわめかせ、緑の牢獄といった感の森全体が陰湿なにおいとともに震えて、断末魔の叫びに似た鳥獣の鳴き声があちこちから響く。

「――地震……じゃな、いッ……!」

 よろめき、傾いた体が及び腰になって、どろどろ流れる地面に下ろされた右手指がうろたえながら錨の役を果たそうとする。ありきたりな黒髪頭やネイビーのブレザー、グレーのスラックスを空間のうねりになびかせた中肉中背の少年はバランスを崩して下生えの上に尻もちをつき、身をくねらせながら近付き、遠のき、視界を横切って流れて行く常緑樹の群れにすくみながらうっそうとした樹海の奥や枝葉の影におびえた目をさ迷わせた。

 震動――そして流動――大地とその上に立つもののみならず、空間それ自体を震わせ、どこへともなく流そうとする奇々怪々な現象――

「……なっ、何なんだよ、これは!……」

『《空間震》です』

 奥二重の目がにらむ空中で、バレーボール大の光球がきらめきながらそっけなく答える。世界が揺らいで荒れ、尻をついた少年が空間ごとたゆたう中、実体のない黄金色の光球はその作用を受けずに超然と浮かんでいた。

『――震動のエネルギーはヴァイオンジ4。じきに揺れは収まりますが、刺激を受けたモンスターが凶暴化している可能性があります。直ちに武装することをお勧めします、斯波ユキト』

「お前……!」

 眉根を険しく寄せた少年――斯波ユキトは、揺れが徐々に収まって空間の流れがさざ波レベルになったところで恐る恐る立ち上がり、じわじわと流れ続ける地面を黒革のローファーで踏みつけて、3,4歩ほど離れた位置、頭一つ分ほど上の高さの光球に声を荒げた。

「ワンとか言ったな、お前。僕は、こんなゲームをやるつもりなんかないって言ってるだろ! さっさとこのゾーンからジャンプする方法を教えろよ!」

『このゾーンから出ることはできません』

「ふざけるなっ!」

 怒りでむかれた目の前に3Dウインドウが出現して画面がパッパッと切り替わる。この世界から出ようという意思に応じてコマンドが入力されるものの、エラー表示がむなしく繰り返されるばかりだった。

「くっ……!」

 右手で前髪をかき上げ、頭頂部を押さえてユキトはうなった。いつもなら望むだけでサイバースペースに星の数ほど存在するゾーンからゾーンへ自由に移動し、そしてリアル――現実世界に戻ることができるはずなのに――

「――どういうつもりなんだよ? いきなりこんなゾーンにトバして、しかもこの姿はリアルの姿そのまま――ノーマル状態じゃないか! ゲームの勧誘か何か知らないけど、人の個人情報を勝手にむき出しにするなんて!」

『そのような些事を気にしている場合ではありません。今の無防備な状態では攻撃を受けた場合、その体――《アストラル》が深刻なダメージを受ける恐れがあります。速やかにポイントを使用してバリアを強化し、装備を整えた方がよろしいでしょう』

「ちゃんと答えろよ! 何が目的なんだよ!」

『先程から申し上げておりますように、サポート・ソフトウェアである私のアドバイスを受けながらここで生きていただくことです』

「いい加減にしろよッ!」

 怒りに任せて飛び出した右こぶしが3D映像をすり抜け、流動にあおられ、地面の流れに足を取られたユキトは危うく転びそうになった。シミュレーテッド・リアリティ・テクノロジーの進歩によって第二のリアルに進化したサイバースペース《ワールド》に飛ばしていた自分の精神そのものであるアバター《アストラル》が突然強制転送され、気がついたときにはこの樹海に倒れていて……そして目覚めた自分の前に現れたワンと名乗る人工生命《Artificial Life》にこの世界で暮らすように指示され、いくらジャンプを試みても脱出することができない状況がユキトを攻撃的にさせていた。

「……くそっ、ALのくせに――うわっ?」

 転びそうになった羞恥からいっそう強くこぶしを固めると、視界にいきなり羊皮紙デザインのウインドウが開き、一帯を俯瞰した3Dマップがユキトをディフォルメしたキャラクター・アイコンを中心に表示される。

「……な、何だよ、これ?」

『これは地図アプリ《ヘブンズ・アイズ》です。周辺の地形や天候、流動の情報に加えてモンスター等の位置も表示します』

「地図って……この辺り以外ぼやけているじゃないか」

「ご心配には及びません。足を踏み入れればクリアに表示されるようになります。現在近くにモンスターはいないようですが、油断は禁物です。この森に生息しているモンスターの中には強力な種類もいますので』

 さらにワンはもう一つウインドウを出現させて見せた。パーソナル・インフォメーションと表示された画面には、ユキトの氏名、年齢、身長、体重から血統といった個人情報がまとめられた《プロフィール》、生命力を数値化している《ライフ》や《装備》、《所持品》等とともに《所有ポイント》という項目があり、勝手に選択されて開かれた画面には10000ポイントと表示されていた。

『――あなたの所有ポイントは10000ポイントです。このポイントを使用して敵に備えて下さい。このゾーンではアストラルが現実の肉体と同じに設定されていますので、傷付けば痛みを感じて血が流れますし、後遺症が残るような重傷や致命傷を受ける可能性もあります』

「しつこいな、お前!……」

 反発するユキトの右手がそろそろと上がり、赤ネクタイとブレザー左胸の校章にかけてを不安げに押さえる。アストラルが損傷するのは、精神がダメージを受けるのと同義。それゆえワールドではアストラルを事故や事件から守るためにワールド・ポリスが公共スペースのパブリック・ゾーンはもちろん、グルメ、ショッピング、アミューズメント、ソーシャル・ネットワーキング等あらゆるサービス・ゾーンで目を光らせ、暴力がメインとなるアクションやシューティング、ロールプレイング系等のSRG――シミュレーテッド・リアリティ・ゲームのゾーンでは、どんな攻撃を受けてもアストラル自体は傷つかないようにプログラムを組んで設定することが運営会社に義務づけられていた。

「……どうせはったりだろ。危機感をあおる演出としては最悪だよな」

 強がって見せるユキトの脇の下が汗で湿り、生唾を飲み込んだ喉がごくんと鳴った。いつもとは明らかに違う、リアルボディのそれと変わらない心臓の鼓動や内臓の活動、血肉の感覚が少年の顔をこわばらせていた。もしアストラルが回復不能なダメージを受けるようなことになったら、このゾーンから脱出してリアル――ネットカフェのシングル個室席でワールドに飛ぶための機器《WTDrive》を耳にはめ、椅子の背にもたれている肉体に戻れたとしても精神に重い障害が残ってしまうし、万が一致命傷を受けるようなことがあれば――それを想像して血の気が引いたとき、ウインドウに表示されていたポイントが減少して全身が光に包まれ、右腕が少し重くなった。

「な、何だっ?」

『お悩みのようですので、こちらで推奨強化をさせていただきます』

 うろたえるユキトの体を包んでいた光が消えると、鈍くきらめく銀の西洋甲冑の籠手がブレザーの上から右手にはまっていた。それはナックルダスターを合体させて打撃に特化しているデザインだった。

『打撃スキルがあるあなたに合わせてナックル・ガントレットを購入し、残りのポイントでバリアの強化を行いました。今あなたが装備している葵乃高等学校指定のブレザー、ワイシャツ、スラックスも頭や顔、首や手といった部分も強化したバリアで守られていますので、ある程度の攻撃に耐えることができます。ただし、バリアは気を抜いていると本来の効果を発揮しませんのでご注意下さい。なお、武器等のアイテムは《イジゲンポケット》という異空間にしまっておいて、必要時に取り出すことができるようになっています』

 そう言ってワンはステータス画面を開き、そこに並ぶ項目から攻撃力と防御力をピックアップしてどれだけアップしたかを数値で教えた。

「勝手なことするなよ! 僕はこんなゲームなんかやらないって言ってるだろ!」

『通常、ポイントはモンスターを倒して入手します。装備やその他物品等の購入はショッピング・アプリ《StoreZ(ストアーズ)》、武器・防具等及びバリアの強化は強化・改造専門アプリの《グロウス》から行うことができます。アプリはメインメニューの《アプリケーション》から呼び出せますし、望めばショートカットも可能です。StoreZでお気に召したアプリがありましたら、ポイントで購入していただくことが――』

 ワンは一方的に説明し、それを終えるとユキトの前に表示されていたウインドウを消した。

「まったく、冗談じゃない……!」

 右手を覆う鋼の冷たさに顔をしかめたユキトは、バリアにぶつかる微風のような流動に苛立ちながら詰問した。

「勝手に人を強制転送して閉じ込めるなんて立派な犯罪じゃないか。そうか、ここから出たければゲームに登録して法外な料金を支払わなきゃいけないんだな。言ってみろよ、いったいいくら払ったら、ここから出られるんだ?」

『ここから出ることはできません。あなたはこのゾーンで生きていくのです、斯波ユキト』

「くっ、追い込んでから要求するつもりか……!」

 黄金の光球を憎しみのまなざしで刺したユキトは、自分が相手の期待する反応をしているのかもしれないと思って奥歯をかみ締め、左頬を引きつらせながらどうにか怒りを抑えた。

「……お前みたいに不愉快なALは初めてだよ。作ったのはよっぽど性悪なヤツなんだろうな」

『私を作ったのはHALYです』

「ハリー?」

『そうです。このゾーンを管理するALです』

「HALY……」

 どこか引っかかる名前を繰り返し、ユキトは左手の平で湿った額をひとこすりした。だが、異常な状況に投げ込まれた混乱が揺らめく木々や流れる地面で助長されていたため、その引っかかりをうまく解くことができなかった。もどかしい思いに駆られて詳しく聞き出そうとしたとき、先にワンがきらめいてしゃべり出した。

『生き延びるためにも他の人間と合流した方がよろしいでしょう。ヘブンズ・アイズの縮尺を小さくして近くに反応がないか確認して下さい』

「他にもいるのか、僕と同じような目に遭っている人間が? いったい何人いるんだ?」

『強制転送されたのは、あなたを含めて666人。全員10代から20代の男女です』

「666……」

 被害に遭っている者が他にもたくさんいる――それが慰めになるというのは、いささかいびつな心の動きだったが、いくらか落ち着きを取り戻したユキトは、みんなで集まれば心強いし、もしかしたらこのゾーンからジャンプする方法を知っている者がいるかもしれないと考え、自分を翻弄する奇怪なシチュエーションから一刻も早く抜け出したいと焦って、近視になったかのように錯覚させるウインドウを凝視した。すると意思に従って縮尺がズウッと小さくなっていき、深緑の海原――樹海の上に赤い光点がたくさん表示される。

「うわっ、何だよ、この赤い光の点々は?」

『モンスターです。モンスターとの戦闘経験が無い今の状態では、赤い光点が示すモンスターを識別できませんので、悪くするとあなた1人では勝ち目のない相手にぶつかる可能性があります。現時点では進んで接触しない方がいいでしょう』

「ひどいな、それ。普通、序盤は弱いモンスターしか出て来ないようになっているもんじゃないのか?」

『このゲームは、そんなふうに生易しくはありません』

「はぁ……まぁ、とにかく赤い点を避けて移動した方がいいのか……この白い光点、『Unknown』てのは?」

『UnknownはUnknownです。他の人間か、あるいは別の存在か。答えはご自分でお確かめ下さい』

「……ホントにムカつくヤツだな、お前」

『残念ですが、そうしていただくしかないのですから仕方ありません』

「そうかよ」ワンを斜めに見上げてにらみ、ユキトはマップに目を戻した。「……ここからだと少し歩くみたいだな。通信機能は無いのか?」

『通信は《コネクト》というアプリでできますが、今し方の空間震の影響が障害になっていることに加え、相手がUnknownで《コネクトレベル》が低いので回線をつなげることは困難です』

「コネクトレベル?」

『相手との絆の強弱を表すものです。絆が強くなればコネクトレベルが上がって通信がつながりやすくなり、映像と音声もクリアになります』

「ふぅん。ともあれ今は歩いて行ってみるしかないってことか……まったく……!」

 ユキトは左手で赤ネクタイを緩め、目の高さに上げた鋼の右手を握ったり開いたりし、意思に合わせて自分を包むバリアが強まったり弱まったりするのを確かめると、自分から遠くなるほどゆがみがひどくなる樹海を、時折気まぐれに向きを変えて流れる空間を見回して鼻からじれた息を漏らした。とにかくこのゾーンを出るまでは、ある程度このワンやHALYとかいうAL、そしてこいつらを操っている者の言いなりになるしかない――

「……ホントに最悪だな、何もかも……!」

 怒りを全身からにじませるユキトは、嘲るように顔を撫でて流れる空間に目を細めるとヘブンズ・アイズのマップに表示される白い光点の位置を確かめ、空中に浮かぶワンを振り切る勢いで揺らめく樹海をずんずん歩き出した。

【――このとき、斯波さんはまだ知る由もありませんでした。流動し続けるこの世界でこれから起きることも、自分の体に仕組まれた過酷な運命のことも……――】