蛆、そして蛇

 残暑の濁った夕暮れ……

 遠く……か細い蝉の鳴き声が聞こえる……

 ふと……夢うつつに目を覚ますと、友人の見舞いに出かけていた妻が頭の側で正座をしていた。白い肌とワンピースが、窓から差し込む黄昏の陽で薄暗い赤に染まっている。マンションの西向き六畳和室、黒い台に十九インチのテレビが乗り、雑誌が無造作に置かれたガラスのセンターテーブルと白いクッションが二つある部屋……やや微熱があって見舞いを遠慮したわたしは、一人家に残って家事を片付けた後、少し休もうとクッションを枕にごろりと横になって、エアコンの効いた和室でそのまま寝入ってしまったらしい。

 妻は産後の友人と赤ん坊の様子について顔の上からわたしに告げ、冷艶な目をすうっと細めた。わたしは畳に肘をついて起き上がると、あぐらをかいて妻と向き合った。わたしより数年遅れ、もうじき三十になる美しく彫り込まれた顔、胸元まで流れる艶やかな黒髪、たおやかであだっぽい肉体……まどろみから抜け切らぬわたしはなぜかふいに妻を求め、抱き寄せようと手を伸ばした。いつもであれば進んで体を委ねるのだが、今日の妻は薄紅の唇に儚げな微笑を浮かべると、手に持っていた本をわたしに差し出した。表紙に何も書かれていない、ただ透き通るように白く薄い本――妻は、その本を読んで欲しいと促した。小説好きの彼女は、ときどきこうして自分の気に入った本を勧めるのだが、そのときの瞳には……それは微熱のせいで頭がぼうっとしていたからかもしれないが、何か奇妙な力……引き込まれるようなものがあった。わたしはわずかにめまいを覚えながら本を受け取り、頁を開いた。そこに書かれていたのは、次のような書き出しから始まる話だった……




 下腹部が熱く焼け、全身から燃える汗があふれて滴り落ちました。歯をぎりぎり食いしばり、岩の褥に爪を立てる私の胎内で炎の塊が――赤子が動きます。何とか産み出そうと苦悶し、うめいていきむと陰から火が漏れて肉を焼く苦い悪臭が辺りを冒し、喉から炎のような叫びが噴き出しました。蒼白な顔で寄り添い、必死で呼びかける夫の声が遠のいていく中、私は両手を伸ばして求めたのです。私が愛した、夫の温もりを――



 ――私は夫を愛していました…………深く……深く、愛していました…………

 私と夫は毎夜、清らかな月光に照らされて愛し合い、四十を超える子供たち――島々や神々――をもうけ、人間や鳥獣、木々や花々といった生命が大地に満ちていくのを見守っていました。私たち夫婦は遥かな天上から泥のような地上に大地を造り出して降り立った、神と呼ばれる存在だったのです。

 私たちは元々血を分けた兄妹で顔立ちもよく似ており、天上一、二の麗姿だと他の神々からの誉れも高かったのですが、とりわけ夫――両耳の上で黒髪を綺麗に束ねて櫛を挿し、黒御鬘を編んで作った冠を頭にいただいて、純白の衣をまとった長躯は、感嘆のため息が漏れるほど見事なものでした。私たちは、まばゆい光あふれる天上で過ごした幼い頃からともに笑い、ともに喜び、あらゆるものを分かち合って暮らし、そして長じたのち、ごく自然に契りを交わして夫婦となりました。夫は私を愛でて下さり、お前の黒髪は光をはらんだ清流のようであるとか、眉は天の三日月よりも高貴な形をし、瞳はきらめく黒耀の珠のようで、唇は甘く熟れた果肉より美味であり、肌は陶酔を誘うほど白く柔らかであると褒め称え、賛美に恥じらう私を求め続けたのです。

 そして、あるとき私はまた新たな命を宿しました。それがあの炎の赤子でした。長じたら火の神になるであろう赤子が育つにつれ、次第に下腹部が熱を持ち、脂汗が止まらなくなって意識が蒸発していきました。夫は憔悴していく私を案じ、声を荒げて赤子を流すよう迫りましたが、夫との間にもうけた愛しい赤子にどうしてそのようなことができるでしょう――




 気が付いたとき、私は闇の中にうつ伏せに倒れていました。

 ……いったい……どうしたのだろうか……

 呆けた半開きの目で黒く塗り潰された世界を見つめ、起き上がろうとして私はのろのろ腕を動かしました。肢体はなぜか麻痺したかのように感覚が不明瞭で、どことなく生気が感じられません。辺りには硫黄に似た悪臭が漂い、白い衣を着ているにもかかわらず、寒さで震えが止まりませんでした。意識が靄から抜け出すにつれて胸騒ぎがどんどん酷くなり、自分が陥っている状況に混乱した私は、おぼろげな記憶の糸を憑かれたように手繰りました。死に物狂いの難産の末に炎の赤子を産み落とした私は、そのまま褥に伏せり……恐ろしく真っ黒い、巨大な魔物に飲み下されていくように―――――――――

 ――――――はっとした私は、思わず自分を抱きました。衣を通して骨に沁みる冷感が走り、ぞっとした私は突き放すように肌から手を離しました。震えはますます酷くなり、乾いた喉があえぎを漏らして痙攣しました。

 …………………………………………………………………………………………あぁ…………

 それがやっと吐き出された、かすれた叫び……私は顔を両手で覆い、ひざまずいて、恐ろしい考えを退けようと頭を振りました。

 ……死……んでなど、いない……

 私は……私は死んでいない……

 私は……私は……私は……! 私は……! 

 あぁ……! あぁぁ……!

 それは抗うほど私を強く組み伏せ、無残になぶり、冒しました。 永久の契りを交わした私の大切な半身……二人で紡ぎ続けた幸福な時……突然それを奪われた絶望――――

 私は泣き崩れました。すさまじい嵐に砕け落ちる山のように、氾濫する川にすべてを押し流される大地のように、暗黒に叫びをすべて飲み込まれながらひたすら号泣しました。私は悟ったのです。自分が死んだことを。そして、ここがかつて耳にした死後の世界、黄泉国だということを――

 泣いて、泣いて、泣き疲れて意識を失い、目を覚まして再び……それをどれだけ繰り返したか分かりません。狂おしく嘆き、悶えながら私は夫の名を呼び、追って来てくれはしないかと待ち続けました。私たち神は、命を断ち切られない限り永遠に存在し続けます。ですから夫が自ら命を絶つか、私の様に何らかの理由で死なない限り、私たちは永遠に交わることはないでしょう。いつまで経っても現れない夫に恨みを抱くこともありましたが、私が死に際して味わった苦しみを思えば、それを願うのはあまりにも残酷です。やがて涙も枯れ果てた私はうずくまり、孤独と絶望を抱えて底知れぬ闇に沈んでいきました……

 ――ふと――何かの気配がしました。

 ですが、私の目は暗黒に捕らわれたままでした。その間にも気配はどんどん増え、辺りの臭気がきつくなっていきました。それが気付け薬となり、幾分正気を取り戻してしまった私はやがてうつろな瞳を上げ、周りの闇へと向けました。

 そして見たのです。自分を取り巻くものを。

 それはざんばら髪の頭から二本の角を生やし、肉が溶けて崩れたような容貌の、がりがりの裸をさらした醜女の群れ――体臭に引き寄せられた蝿がしなびた肌を這い、ぶんぶん飛び交う中から向けられる 何十、何百、それ以上の不気味なまなざしを私は一身に受けていたのです。

 私を貪り食おうとしているのか――恐怖と嫌悪に駆られて腰を浮かしかけた私は、しかし思いました。このまま独り闇で悶え続けるより、黄泉国に落ちてなお残っている身魂を食われてしまった方がいいのではないかと。そう思うと恐れは薄れ、進んで己を差し出そうという気にさえなりました。

 私は覚悟を決め、歯を噛み締めて襲いかかられるのを待っていました。すると様子をうかがっていた鬼女の一人がゆっくり、そろそろと近付いてきたのです。いよいよかと体を固くすると、近くまで来たその鬼女は私の前に何かをそっと置き、仲間のところに戻って行きました。置かれたものは両手の平ほどの大きさをした針葉に何かを小山に盛ったもので、そのにおいは地上の穀物の類を煮たものに似ていました。

 ……食べ物? この私に?

 いぶかしむ私を醜い鬼たちは遠巻きにして、じっと見ているだけでした。




 私はその穀物らしきものに手をつけませんでした。得体が知れないうえ、鬼女が触れたものなど汚らわしいと思っていましたし、何よりも地上を、あの光に満ちていた世界を僅かでも思い出させるにおいなど嗅ぎたくありませんでした……

 しかし、鬼女たちは私の気持ちなどお構い無しでした。私が捨て置くと穀物は数多の蝿にたかられ、やがて蛆の巣窟と化してしまいます。すると、次にやって来た鬼女はその蛆の塊を下げ、新しいものを置くのです。それにいら立ち、やめて下さいと怒鳴ったこともありました。でも鬼女たちは、崩れた肉襞に埋もれがちな目を見開いて驚くものの、やはり置き続けるのです。

 私は、だんだん鬼女たちが気の毒に思えてきました。無下にされても置き続けることが情けであるならば、それが押し付けでも心苦しく感じずにはいられなくなったのです。直視に堪えなかった容貌も暗闇になじんできた目で何度も見ているうちに慣れ、それぞれの顔の崩れやゆがみ、背恰好で区別がつくようになるにつれ、私は彼女たちに親しみさえ抱くようになりました。思えば、それは孤独に耐えかねた心の求めだったのです。

 何十回目かのとき、私は意を決し、置かれた物をつまんで一口食べてみました。それはやはり地上の穀物に似た味がして飢え切った胃袋に溶けていき、二口、三口……と貪るうちすべて無くなってしまいました。満ち足りて空になった針葉を手に放心していると、囲んでいた鬼女たちが互いに顔を見合わせてぎゃあぎゃあ騒ぎ出しました。何を言っているのか分かりませんでしたが、様子からするとどうやら喜んでいるようでした。

 次に鬼女たちが穀物を持って来たときは、直接手から受け取って、ありがとう、と礼も言いました。節くれ立って黒ずんだ手が、妙にいとおしく感じられたものです。

 食べ終わって一息ついていると、取り巻く鬼女たちの後ろから足音が聞こえ、大きな影が四つ、こちらへ近付いて来ました。それは全裸の男の鬼たちで、立った私の頭がみぞおち辺りに来る背丈、岩石を固めたような筋骨隆々の体躯をしていました。初めて見る男の鬼に多少驚きはしましたが、鬼女たちに慣れた私は、いかつくゆがんで崩れた顔を見ても嫌悪感を抱きませんでした。

 何事かと座ったまま見上げていた私の前にひざまずいた彼等――その中の一人が私の興味を引きました。細面の顔は特に右半分が大きく崩れ、目玉も失われているようでしたが、理知的そうな左目と落ち着いた雰囲気が印象的な若者でした。しげしげと見ていると、細面の鬼は驚いたことにたどたどしくではありますが、私に分かる言葉を発したのです。

 あなたは……神……ですか?

 その問いは、忘れかけていたことをはっきりと思い出させました。そう、私は大地を固めてそこに降り立ち、幾多の島々や生命を産み出した神です――私は細面の鬼を見つめて噛み締めるように答え、否応無くよみがえる夫と愛し合った日々に泣いていました。そんな私の前で細面の鬼が周りに言葉ともうなりともつかない声を発すると、鬼女たちがぎゃあぎゃあとわめき出し、辺りは騒然となりました。四人の鬼は鬼女たちを叱って静めると、額を集めて何事か相談を始めました。しばらくすると鬼たちは離れ、そして細面の鬼がまたひざまずき、涙で頬を汚した私を気遣いながらゆっくりと語りかけたのです――




 汗がにじんだ肌にまとわりつく蝿を手で追い払うと、私は先を尖らせた長い木の棒を再び握ってざっくざっくと一心不乱に土を耕し、転がっている石を取り除きました。この暗闇の国に流れ着き、今の暮らしを始めてからどのくらい経ったでしょうか。

 あのとき、細面の鬼の言葉には正直驚かされました。彼は、死んでこの世界に来たのだと私にあらためて自覚させたうえで、黄泉国を治めて欲しいと言ったのです。彼の話だと、ここでは貧しい土地やわずかな食物を巡ってときどき争いが起こっていて、それを止めようと自分たちの中から王を選ぼうともしたのだけれど、なかなかうまくいかず困っている。しかし、神であれば皆も納得すると言うのです。

 私は、自分には無理ですと断りました。でも彼は、神には黄泉国を統べて導いていく力があると言い、それを頼むのは我々に心を開いて供物を口にしてくれたからなのだと、心を通わせることができると本能的に感じればこそ、鬼女たちもあれほど繰り返し情けをかけたのだと説明しました。

 私は悩みました。長く――おそらくは数日闇の中で考え抜いた末、私は願いを聞き入れることにしました。どんなに泣きわめいたところで二度と再び地上に戻り、夫と暮らすことはできないでしょう。それならば、良くしてくれた鬼たちのために働いてこの地に骨を埋めようと決めたのです。

 当初は闇ばかりと思っていた黄泉国も歩き回って目を凝らすと、石だらけの荒れ地に細々と小川が流れ、所々から生える樹木が枝を伸ばして葉を茂らせ、中には丸々とした桃などの果実を実らせているものもあると分かりました。四方には無数の洞窟がある岩山が幾つもそびえており、数千にのぼる鬼たちはその洞の中で眠り、目覚めると山を下りて耕地で穀物を育て、実ればそれを収穫し、簡素な石のかまどに木の枝をくべて石打ちで暗い火をつけ、器状に削った石に川の水と脱穀した穀物を入れて煮ていました。それに取った木の実や川原の石の下を這いずっていた虫を添える……そうした生活を彼等は送っていたのです。

 最初、細面の鬼たちは私に岩山の頂近くの洞穴を提供し、そこから見守っていてくれればいいと言いました。けれども私は、彼等の働く姿を見下ろしているうちに自分だけそうしていることに我慢できなくなり、下りて行って一緒に働かせて欲しいと細面の鬼に頼みました。彼がびっくりした顔で左目を瞬き、周りに私の意向を伝えると、鬼たちはとんでもないというふうに頭や手を横に振りましたが、私は見下ろしているだけというのは申し訳なくて耐えられないと粘り、ついには彼等の手から土を耕す木の棒を奪って荒れ地の開墾を始めました。うろたえていた鬼たちもやがて諦め、私をそのままにしてくれました。

 黄泉国の土地は痩せており、たくさん種をまいても芽を出し、実を結ぶのはごく一部。それを考えれば、かつて私が与えられた食べ物を粗末にしたのは、何と愚かなことだったのでしょう。

 私は何としてもこの土地を豊かにしたいと思い、持てる力すべてを込めて木の棒を振るい、全身汗にまみれ、衣を汚して悪臭を漂わせながら祈りを込めて種をまきました。すると、少しずつではありますが土に活力が宿って芽吹いた植物が健やかに育ち、豊かに実るようになっていきました。それを見た鬼たちの表情もだんだん明るくなり、やがて岩山から見渡せる一帯が豊穣になったときには、もう争いは過去の出来事になっていました。

 たいそう喜んだ鬼たちは、あるとき私を岩山の麓――少し窪地になっていて鬼たちが集まれるような場所があるのですが――に招き、場の中心に据えて囲むと手を上げ、足を上げて陽気に踊り始めました。輪になった数千もの鬼たち……けっして洗練されたものではありませんでしたが、彼、彼女たちは黄泉国の果てまで届くような声で歌いながら踊ってくれました。歌の内容は分からないものの、その心は十二分に伝わり、いつの間にかぼろぼろ落涙している私の傍に細面の鬼がやって来て、皆の感謝の気持ちをかしこまって伝えてくれました。私は照れ臭さと泣き顔ばかり見せている恥ずかしさから顔を拭い、喜ぶ鬼たちを見て、あぁ、良かった、と晴れやかな気持ちに満たされました。私はこのとき鬼たちと心から打ち解け、家族になれたと思ったのです。

 この頃から私は、鬼たちに名前を付けるようになりました。まるで名付け親にでもなったつもりで耕作の合間に頭をひねって一人ひとり考えていったのです。瞳が薄い朱であれば朱目(シュメ)、明るく活発な性格であれば陽日(ヨウヒ)、丸々とした体格であれば玉(ギョク)といったものでしたが、名前というものを初めて知り、面白がって我も我もとやって来る鬼たちすべての名を考えるのはさすがに骨が折れました。

 そして私は、あの細面の鬼を細鬼(サイキ)と名付けました。名前を呼ぶと、照れながら顔を綻ばせる彼が可愛らしくて、私は、サイキ、サイキ、と繰り返し呼んではにかませました。

 サイキによると鬼たちは生前人間だったらしく、とくに彼は生きていた頃の記憶が他の鬼よりも鮮明で、それで私に分かる言葉を話せたのだそうです。私は頼んで鬼の言葉を教わり、地理を知ろうとあちこち足を運ぶときには案内人になってもらいました。そのお礼に地上や天上の美しい光景――果てしない翠の草原、清純な流れを奏でるせせらぎ、荘厳な雲海を侍らせ、燦然とした星々をいただく霊山にそびえ立つ神々の社のことなどを話してあげると、彼は懐かしそうに、あるいは興味深そうに聞き入っていました。

 そんなある日……サイキと二人、耕作に適した土地を探して岩が転がる谷間を歩いていたときのことです。前を歩いていたサイキが急に止まり、壁のように立ち塞がりました。どうしたのだろうと思って見上げると、彼の隻眼は峻嶮な稜線の彼方に向けられており、闇がよどんだそこにはひと際高い、天衝く山が微かに見えました。その峰をにらむ彼の眉間には深い溝が刻まれ、唇をきつく結んだ顔はただならぬ険しさに満ちていました。驚いた私が声をかけるとサイキは我に返り、目を伏せてしばし間を置き、何でもありませんと薄く微笑しました。私は訳を聞こうとしましたが、それより先にサイキが苦しげに尋ねたのです。

 ――まだ……地上に未練はありますか――

 その問いにかあっとのぼせ、次いでめまいに急襲された私は倒れそうになるのをこらえ、うつむいて小さく、僅かに声を震わせながら、いいえ――と答えました。神である私でさえ黄泉国から抜け出すすべを知らないのです。夫の胸の中に帰りたいと願ったところでむなしいだけ……また涙がこぼれかけているのを見せまいと先に立ってどんどん歩く私の後ろからサイキは黙って、寄り添うように付いて来ました。

 なぜサイキは突然そんな問いかけをしたのか……よみがえった悲しみに心をかき乱されるばかりだった私には思いを巡らすことができませんでした。しかし、その理由はやがて明らかになりました。あのような形で……




 地上を忘れようと努めてしばらく経ったある日、いつものように鬼たちと働いていた私のところにメミという名の鬼女が転がり込んで来ました。ぜぇぜぇ息を切らしながら何事か伝えようとする彼女――まだ鬼の言葉を大まかにしか理解できなかった私はサイキを呼んでくれるよう周りに頼み、間もなくやって来た彼を始めとする主だった鬼たちが私に背中をさすられていくらか落ち着いたメミを囲むと、彼女は興奮してまくし立てました。狼狽した言葉が跳ね回るにつれて鬼たちの顔が不穏な色に染まっていきましたので、不安が高じた私は立ち上がってサイキにどうしたのかと尋ねました。彼はためらっていましたが、問いただすとようやく、見慣れない生者が剣を携えて入り込んで来たらしいのですと答えました。

 ――生きている者が、死の国に入り込んで来た――?

 にわかには理解できない私はサイキの丸太のような右腕をつかんで、いったい何者なのか、どういうことなのかと揺さぶりました。彼はメミから聞き取ったその侵入者の容貌や身なりを重い口ぶりで伝えましたが、それを聞いていた私は熱病に侵されたかのように体がぶるぶる震えてくるのを禁じ得ませんでした。白の衣をまとって腰に剣を差し、左右の耳の上で黒髪を束ねた頭に櫛を挿し、黒い蔓草で作った冠を頂く美丈夫――それは、死に別れた夫そのものだったからです――

 夫が来た――愛する夫が――!

 どうやって来たのかは分かりませんでしたが、夫と再会できると狂喜した私は鬼たちに片端から抱き付き、驚く皆の間を笑いながらくるくる踊りました。そして、ひどいなりで迎えるわけにはいかない、せめて汗と土の汚れを落とそうと川へ駆け出しました。途中足がもつれて何度か転んだ末にたどり着いた私がまず髪を洗おうとひざまずいて前かがみになり、薄闇に目を凝らして川面をのぞいたときです――

 ――ぎゃあああああああああっっっっ―――――――――――――――――――!

 絶叫した私は河原に尻もちをつき、がたがた震えました。川面に突然現れた化け物に仰天して腰を抜かしたのです。それは鬼たちを見慣れた私でさえ戦慄する顔――慌てふためき、這って川を後にしかけたところで私は凍りつきました。ある恐ろしい考えが頭をかすめて……その場にすくんでいると、サイキが私を追って来ました。そばにしゃがんだ彼の、悲痛な色をした左目……その瞳に私はおののきながら尋ねました。私の姿は、いったいどうなっているのですか、と……

 彼は痛みをこらえるようにまぶたを閉じ、しばらく瞑目したのち目を開けると、そっと川を指差して自分で確かめるように促したのです。私は半ば放心状態でふらふら戻り、河原に両膝をついて震えながら川面をのぞきました。

 そこに映ったのは、ゆがんだ醜悪――

 落ちくぼんだ目を蒼く光らせ、腐って崩れた肉から蛆をうじゃうじゃわかせる化け物の顔――

 なぜ……なぜ私は今まで気付かなかった――いえ、気付こうとしなかったのでしょう……黄泉国の闇で目が曇り、臭気に鼻を鈍らせ、冷たくなった体が感覚を薄れさせていたとはいえ、心のどこかで私は、神である自分は鬼たちのような姿にはならない、なるはずがない、なりたくないと思って無意識に顔を背けていたのです――

 私は、醜い化け物に相応しい絶叫をほとばしらせました。喉が引き裂けんばかりに叫び、角ばった石が覆う河原に突っ伏して号泣しました。そして、自分の傲慢さを詫びながらサイキに縋り付き、助けを求めました。夫に会いたい、だがこの姿は見せられない、どうしたらいいのだろうと……すると、彼は隻眼を切なげに細め、この暗闇に目が慣れていない生者では満足に見ることはできないだろうと言いました。その言葉で私はいくらか落ち着き、ふらつく体を後ろから支えられて元来た道を戻りました。

 耕地に戻ると、侵入者の話題でざわめいていた鬼たちが群がって来ました。不安に囲まれた私は皆を安心させなければと地面を踏み締め、侵入者は自分の夫だから心配いらないと伝え、少し会って話をしてくると告げると、サイキたちを残して独り歩き出しました。

 おびえた足取りで荒れ地をしばらく行くと、闇の彼方から私の名を呼ぶ声が耳を打ちました。それは紛れもなく夫の声――歓喜と恐怖で心が乱れ、張り裂けんばかりになった私はうわごとのようなかすれ声で夫を呼びました。それはやがて叫びになり、いつの間にか駆け出していた私に闇の向こうでどこだ、どこにいるのだと問う声が近付き――そして、あぁ、私たちはとうとう巡り会ったのです。私の潤んだ目は、十数歩離れたところに立つ愛しい夫の影をぼんやりとらえました。ですが、夫の方はサイキが言ったように闇のせいで私がほとんど見えないようでした。蛆が巣食う腐乱した体を気付かれてはならない――我を忘れて夫の胸に飛び込みそうになる自分を私は必死に抑え、お前の美しい顔をよく見せてくれ、恍惚とさせる体を抱かせてくれという求めを、今は汚れていて臭いからと拒み、それでも構わないと粘る夫に、私に恥をかかせないでと哀願しました。

 血がのぼった夫の頭を冷やすと、私たちは少し距離を置いて腰を下ろし、あふれ出す思いを、積もり積もった話を次から次へと、時を忘れて語り合いました。 聞けば夫は天上の神々の断片的な言い伝えを頼りに地上を回って、ついに黄泉国へ通じる洞窟を探し当てたのだそうです。その一途さに私はどれだけ感動し、涙したでしょう。

 ですが……私が死ぬきっかけになった火の赤子を殺したと聞いたときは、愕然とせずにはいられませんでした。いくら愛する妻を奪われたからとはいえ、私が産んだ赤子の首を怒りに任せて斬り落とすとは……夫にそのような顔があったのは心底ぞっとしましたが、それも深い愛ゆえであると思えば、そのときはどうにか受け入れることもできなくはなかったのです……

 闇を間に語り合ううち、夫を求める気持ちは抑え切れなくなっていきました。二度と離れ離れになりたくない――夫も思いは同じで、一緒に地上へ帰ろうと私に迫りました。私はためらいました。この醜い姿を白日の下に、夫の目にさらすことを――でも、これほど愛し合っているのだから、きっと受け入れてくれると信じました。いえ、信じたいと思ったのです。

 私はこの国の王に地上に戻る許しを得に行く、そのときに今まで与えてもらった食べ物や住まいの礼を言うつもりだと夫に言いました。黄泉国を統べているのは私なのですが、このまま鬼たちと別れることはできませんでしたし、サイキに相談もしてみたかったのです。

 私は皆を驚かせたくないからと夫を説得してその場に残し、足早に戻りました。帰って来た安堵と何があったのか問う声にもみくちゃにされた私は声を張り上げて皆を静め、サイキの腕をつかんで連れ出すと河原まで引っ張って行きました。

 しかし、いざ向き合うと、彼等との思い出が止めどなく浮かんで声が出ませんでした。私は唇をかんであふれそうな感情をこらえ、意を決して隻眼を見上げると、夫と一緒に地上に戻りたいと切り出しました。

 予想していたらしい彼は瞳を陰らせ、だめです、と辛そうに返しました。その答えに打たれた一瞬の後、血相を変えた私はなぜだめなのかと声を荒げました。サイキは興奮する私を受け止め、落ち着き払って説明しました。あなたはすでに死んだ身であり、この黄泉国の一部となっているのです。死者が光あふれる地上に戻って生者と暮らすことはできません……と――

 私は食ってかかりました。あまつさえ彼の厚い肉をこぶしで何度も何度も、自分を阻む壁であるかのように叩き、おそらく知っていて隠していた黄泉国と地上をつなぐ洞窟のことを挙げてなじりました。そんな駄々っ子のような私を、彼は胸をえぐられるような悲しみをたたえて見つめていました。

 そのときです。

 私たちをぼわっと明かりが浮き彫りにし、おぞましい物を無情に払いのける、そんな悲鳴がその光――炎の方で上がりました。それは夫でした。火のついた木の棒――それは夫が挿していた櫛の歯を一本折って神の力で松明に変え、火を灯したもの――で私たちを照らし、姿をあらわにさせていました。私を待ち切れなくなったか、心配になって捜しに来たのでしょう。いつも目にしている暗い火のそれとは比べものにならない強烈な光を浴びた私は火の池に投げ込まれたような錯覚に襲われ、腐った体内のあちこちで何かが悶えました。まばゆく、熱く、あまりに苦しい……そのとき、私はサイキが言った、光あふれる地上では暮らせないということを図らずも体で理解させられたのです。苦痛にあえぎ、両手で光をさえぎりながら私は恐怖する夫に訴えました。確かに死んでこのような姿になりましたが、あなたに対する愛情は昔となんら変わってはいません。だから、このままここに留まって欲しい、と――

 そんな私をにらみ、わずかに逡巡を見せたものの、夫はこう言い放ちました。

 ――この化け物め!

 この化け物め……この化け物め――そう吐き捨てたのです。

 私は光に焼かれながら夫に近寄り、取り縋ろうとしました。ですが、夫は腰から剣を抜いて振りかざしたのです!

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 肉が切り裂かれ、血が噴き出す音が聞こえました。サイキが私をかばって剣を受け、崩れていくのが見えました。仰向けに倒れた体に飛び付き、ごぼごぼ血があふれる傷口を両手で押さえて繰り返し名を呼ぶ私を見つめ、サイキは微笑して絶え絶えな息を漏らす唇を動かしました。

 ……逃げ……て……

 それがこと切れる寸前の、最期の言葉でした。絶命したサイキの巨体は、すぐに土くれになって崩れました。死んでなお、黄泉国の住人としてわずかに残っていた命の残滓が消え去ったのです。私は肉の中の蠢きに操られるように体を震わせて嗚咽し、血に濡れた両手を握り締めました。そして夫に蒼く燃える目を向け、なぜこんなことをと怒鳴って泣きわめきました。それに対し、夫は醜く引きつった顔で怒鳴り返しました。今のお前は死に蝕まれた化け物だ、そんな物の怪と一緒に朽ちていきたくなどない、美しい思い出を汚されたくはない――だから、この場で死んでくれ、と――

 私の中を這いずるものがのたうち、心が無残に引き千切られました。

 ……何という……何ということでしょう……かつてあれほど愛し合っていたのに、この身が醜くなり果てても夫への愛は変わらなかったというのに……いったい……夫は私の何を愛していたのでしょう? 天上一、二と謳われていた美貌を、麗姿を愛していたのでしょうか? 仮に立場が逆だったなら、始めは激しく煩悶したとしても、きっと私は黄泉国に留まって添い遂げると決めたでしょう……そこまで求めるのが酷だというのなら、せめて……せめて嘘でも優しい言葉をかけてくれたなら、それだけでも私は救われたでしょうに……!

 知らぬ間にうなり声を震わせ、高ぶっていく私の体から――何かが蛆の巣食った肉を突き破って飛び出しました。

 ――腕から――脚から――胸から――頭から――――

 腐った体から飛び出したのは、鎌首をもたげて牙をむいた八匹の蛇たちでした。

 私はこのとき死んだのです。

 夫の裏切りに殺され、真に化け物となったのです。

 おぞましい姿に震え上がり、背を向けて一目散に逃げ出したあの男――私は、がっと開いた口から狂った絶叫を噴き、血のように赤い舌を突き出した八匹の蛇と後を追いました。騒ぎに気付いて集まって来た鬼たちも叫びから状況を察し、ごうごうと狂い燃える憎悪と一つになりました。

 激しく揺れる松明の炎を追って地響きを上げる、おびただしい影、影、影――――

 数千の鬼たちと怒涛になった私は髪を振り乱し、蛆をまき散らす狂った獣となりました。蒼く燃えたぎる目をひんむき、耳元まで裂けた口から怨嗟を吐いて、足裏の皮が千切れるのも構わずに荒野を駆けました。その追手から死に物狂いに逃げるあの男は、襲いかかる鬼たちを剣で薙ぎ払いました。次々と宙に首が飛び、血しぶきが散ります。ウネイ、サフミ、アラギ、カナネ、リョクヒ、ヤサツ、ホノマ――私の鬼たちが、家族が無残に斬り飛ばされていきました。しかし、仲間が斬られ、倒れるほど私たちは猛り狂い、かたきの肉と臓腑を残らず食い千切って血をすすり、汚物にしてやらずにおくものかと猛進しました。

 ですが、忌々しいことにあの男は生き延びようとあがき、まず頭にかぶっていた黒御鬘の冠をつかみ取って地面に叩きつけました。すると地面が揺れて何本ものぶどうの木がめきめきと生え、枝葉を茂らせて実をつけたのです。ぶどうの実がかたきだと惑わされた鬼たちは、私の制止を聞かずに次々と食らいついていきました。それでも足りないと見るや、あの男は髪に挿していた櫛を投げて無数の筍を生やし、ぶどうの実同様に鬼たちを混乱させました。しかし、それでも私たちを止めることはできません。追いつかれそうになったあの男は、逃げる途中に生えていた桃の木の実をもぎ取ると、力を込めて後方に投げつけました。

 バアァァァァァァ――――――――――――――――――――――――――――!

 桃の実は宙で小さな太陽に変じ、強烈な光熱で一帯を瞬く間に蹂躙しました。絶叫してばたばたと倒れたり、恐怖にかられて逃げ惑ったりと阿鼻叫喚に陥って散り散りになる鬼たち――その攻撃を辛うじて耐え抜いた私は独り、おびただしいむくろを飛び越えて執拗に駆け続けました。

 追いかけていくうち、私は枝を蜘蛛の巣のように広げる枯れ木と岩だらけの谷間を抜け、以前遠目に見た天衝く山にまで達し、冷たい闇が満ち満ちた洞に入り込んでいました。びちゃびちゃと水滴が垂れ、苔がそこかしこに生す鋭利な岩が突き出した岩窟はだんだん急峻になり、やがて崖のようになって、あの男と私を這い上がるような格好にさせました。そのうち辺りが少し広くなり、遥か前方に小さな光が見えたのです。

 ――地上の、陽の光――

 気付いた私は断じて逃がしてなるものかと力を振り絞り、地面を蹴って、蹴って、蹴り続けました。そしてあと一歩、あと一息で爪が届くところでした。あいつは私を振り切るため、残った力のすべてで千人がかりでも動かせないほどの巨岩を生み出し、私の行く手を、

 どおおおおおおおおおおおんんんンンンッッッッッッ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!

 と塞いだのです。

私は寸分の隙間も無く塞いだ巨岩に飛び付いて動かそうとしましたが、あの男の渾身の力が込められていてびくともしませんでした。罵詈雑言を吐きまくり、砕け散らんばかりに歯ぎしりする私に、あの男は巨岩越しに喘ぎながら言い捨てました。

 お前との縁もこれまでだ――!

 その言葉に私は凶暴に吠え、岩窟に怨念をとどろかせました。

 ――呪ってやる! 人間どもを毎日千人呪い殺して地上を死で満たし、お前を蝕んでやる!――

 それは、私の凄絶な憎悪と執着でした。すると、あの男は唾棄するように切り返しました。

 ――ならば、毎日人間が千五百人産まれるようにして呪いを打ち払ってやる――  

 そして、足早に離れて行く気配がしました。私と蛇たちは巨岩に爪と牙を突き立ててあらん限り吠え、あの薄汚い男との交わりで産まれた地上のすべてが滅び去るように念じ続けたのです。

 それが、私とあの男の最後でした。

 今でも私は、深い闇の底で呪詛を続けています。あの男を死に至らせて地獄に引きずり込む、そのときまで……





 話はそこで終っていた。

 わたしは本を閉じて妻を見た。彼女はただ、じっとわたしを見つめていた。闇が忍び込み始めた部屋はどこか異様さを増しており、熱のせいか寒気がして頭が少し朦朧としてきた。わたしは一言、怖い話だねと言って本を返すと、妻はゆらりと本を受け取り、ためらいがちに、あなたはもし私が死んで醜くなっても愛し続けてくれるでしょうか、と尋ねた。どこかぞっとする響きがあったが、わたしはそれを打ち消すように笑って、当たり前じゃないか、どんな姿になろうともわたしは君を愛し続けるよ、と答えて妻を抱き寄せ、唇を重ねて酔った。

 そのとき、突然リビングの電話が鳴り出した。わたしは妻を離したくなかったが、しつこく鳴り続けるので仕方なく妻を残して薄暗いリビングに駆け込み、受話器を取った。

 何を言っているのか、分からなかった。

 わたしは、電話口から聞こえる話が理解できなかった。妻が……帰宅途中トラックにひかれて……間もなく死亡が確認されたと……身元確認をしたいので搬送先の病院に来て欲しい……警察を名乗る男は痛ましげに言うのである。たちの悪いいたずらにしか思えなかったわたしは憤り、何をばかな、妻はちゃんと家にいる、いい加減にしろと言って、がしゃんと受話器を置いた。

 ため息をついたわたしは、妻のところに戻ろうと振り向いて硬直した。リビングに黒い人影があった。黄昏が消えた中に妻が立っていた。なぜか……金縛りにかかったように動けないわたしに、妻は線香の煙が揺らめくように言った。

 ただ一言、

 ――約束よ――

 と。

 そして、凝らした目に映った姿に私は――

 蝉の鳴き声は、もう聞こえなかった。                  

(了)