Mov.4 あがき

 死――

 ワンに警告されながら、ユキトはそれをほとんどまともに受け取っていなかった。

 自分たちがこのゲーム・ゾーンに強制転送されたのは、既成事実を強引に作って登録料やプレイ料金を請求、あるいはここから出たければ金銭を支払えと要求するためだと思っていた。それ以外に合理的な理由を思いつかなかったし、今まで身の危険を感じる環境とは無縁だったので自分の死をイメージできなかった。

(……うそだろ……アストラルが、消滅するなんて……)

 目の当たりにした青年の死――アストラル消滅――その事実に生身の肉体をシミュレートしているアストラルの毛穴からじわあっと汗があふれ、吐き気をもよおす怖気が体中に広がって足が小刻みに震えた。

(……やらせ……やらせだよな? じゃなかったら悪い夢だろ?)

「――来るぞォ、ユキトッ!」

 ジョアンの警告にユキトはハッとし、ガアアッッと吠えて真正面から突っ込んで来るグリゴ・デオに仰天して転がるように右へよけた。逃げた獲物を追って巨獣が角反りかえる頭を巡らせたとき、バスケットボール大の炎の塊が盛り上がった右肩にぶつかって火炎の牙を突き立てる。

「どうだっ!――Whoa!」

 ジョアンの得意顔が一転引きつる。直撃した炎系魔法《ファイヤー・ブリッド》は筋肉の鎧の表面を軽く焦がすにとどまり、黒髪を躍らせて素早く背後に回った潤のアイシクルも分厚い背中の皮膚を少し傷付けただけだった。

「――ユキト、キミもattackだッ!」

「うっ、ぅああッ!」

 指示に押されてユキトはがむしゃらに突っ込んだが、ナックルダスター付きの鋼のこぶしは砂をぱんぱんに詰めたような左脇腹にはじかれ、反動でのけ反った体がよろける。

「斯波君、危ないッ!」

「――ォッ!」

 太いかぎ爪が左斜め下からユキトを襲う。全身を覆うバリアと、とっさに飛びのいたことで左脇腹から右肩にかけて深々とえぐられるのは免れたが、ブレザーの上から切り裂かれた胸に焼けるような痛みが走る。

「ッう……!」

 ボタンが飛んでブレザーがはだけ、切れかかったネクタイと裂けたワイシャツ、その下のTシャツがあらわになり、胸を触ったユキトの左手が血で汚れる。

「……ホントに、リアルそのままじゃないか……!」

 冷たい汗が肌を濡らし、体が、こぶしがおびえる。3人とも全力でぶつかっているのに、ろくにダメージを与えられない――その無力さをあざ笑うような響きが、ユキトたちの斜め後ろで傍観している2体のうなりに混じる。

「おい、ユキト!」

 ジョアンの右手の中で、炎が取り乱したように揺らめく。

「――escapeしよう。それしかない…… ――ジュンもいいな?」

「え、ええ」

 ジョアンは余裕しゃくしゃくのグリゴ・デオを警戒しながら潤の方に移動し、ユキトと自分たちが左右に分かれる形を取った。残りの2体は目立った動きをせず、絡みつくような目で獲物を追っていた。

「……dashであいつの左右を抜けるんだ」ジョアンの視線が、右肩を焦がした怪物を示す。「――そうすれば、どちらを狙うか迷って隙ができるはず……OK?」

「わ、分かった」

「いいわ」

「よし、いくよ。3、2、1、――Goッ!」

 樹海から出ようとしていたのに、また戻ることになってしまうが――かけ声でユキトたちは駆け出し、手負いのグリゴ・デオの脇を抜けて黒ずんだ幹が揺らめく間に走り込んだ。思ったよりうまくいったなとユキトが左手側の2人に目をやったとき、凶暴化したブルドーザーになぎ倒されていくような樹木の悲鳴交じりにひづめの音が猛追し――ベストの上から背中をえぐられたジョアンが転倒、思わず足を止めてすくんだ潤に血で汚れたかぎ爪が振り上げられる。

「――ッんのォオッッ!」

 とっさにユキトは膨れた筋肉が組み合う大腿部に体当たりし、グレーの巨体がバランスを崩してかぎ爪が逸れる。命拾いをした潤は息を弾ませながら怪物の背後を回ってユキトに駆け寄った。

「――今のうちよ、斯波君ッ!」

「えっ? あ――」

 逃げようと急かされたユキトは、うつ伏せに倒れているジョアンを振り返って躊躇した。

「早くッ!」

「――う、くッ――」

 何もかもかなぐり捨てるように流れを蹴るローファー――その左右で樹海がわめきながら崩れたかと思うと行く手に緑が雪崩れ、倒れ込んだ樹木に足を止められたユキトたちの前を傍観していた2体が塞ぐ。

「――そっ――おッッ!――」

 巨塊の片割れが幹を飛び越えて狼狽をはね飛ばし、少年少女をねじれた幹に叩き付け、下生えの流れを削りながら転がす。

「……づ……ぐ、お……!」

 喉を震わせ、ユキトは砕け散った意識の欠片を手探りした。あえぐたび、体のあちこちにハンマーで殴られるような激痛が響く。土や葉の切れ端が付いた仰向けの体を死にかけた芋虫のようにうごめかせ、ギチギチ起き上がって辺りに目をやると、10メートルほど離れたところに潤が横たわり、形作った逆トライアングルの中に2人を捕らえたグリゴ・デオたちが像を揺らめかせながら不ぞろいの牙の間で真っ赤な舌を濡らしていた。

「……どうして……こんな……!」

 潤んだ瞳が上空の黄金の光球をとらえ、形をゆがませる。

「――……お金目当てじゃないのかよ?……それとも、僕らが殺されるのを見たいのか?……」

『いいえ。あなた方が死ぬとしたら、それは不運、もしくは選択ミスが原因です』

「ふ、ざけるなッ!……」

 酔っ払いのようにふらつきながらユキトは立ち上がり、おどろおどろしく輪郭を崩す巨躯を見回し、気を失っている潤に目を止めた。

(……加賀美さん……!)

 助けに駆け寄るか?――だが、そんなことをしていたら――

 青年の無残な死にざまが再び脳裏に炸裂し、混沌とした流動に揺さぶられる体が無意識に逃げ腰になる。

(……彼女まで見捨てるなんて……だけど……!)

 ひづめが下生えを踏みつけ、遮る木がベギベギギィと強引にへし折られ、背中を曲げた前傾の怪物たちがグルルルル……とうなりながら逆三角形をじりじりと縮め始める。三方から迫るプレッシャーがそそり立つ巨岩並みに膨れ上がり、ユキトの心臓に早鐘を打たせて息を詰まらせた。

(――ぼ、僕は、まだ――)

 ローファーがネズミのように動きかけたそのとき、右前方のグリゴ・デオがかぎ爪を挙げ、地面を蹴ってドオッッーと襲いかかる。肝を潰し、吹き飛ぶようにのけぞるユキト――その視界の端でとげが生えた左肩に何かがドグッと突き刺さってひづめを止めさせた。

「――矢?」

 岩肌のような皮膚に刺さる白い羽根の矢――その軌跡をたどったユキトは、少し離れた木の揺らめく陰で矢をつがえ、弦をグゥーッと引き絞る人影を見つけた。

「――当たんなさいよッ!」

 念を込めて放たれた矢が左前腕の甲殻にはじかれ、右手の4本指が射手へズズズズズズゥゥッッ――と伸びる。20メートル強の距離を一息に飛んだかぎ爪は、盾になっていた木に巻き付いて食い込み、乱暴にへし折って地面にどうと倒したが、すでに人影はそこから消え、ハンドルが赤、リムがシルバーの洋弓片手に樹間を素早く縫ってユキトのそばに駆け寄った。

「大丈夫っ?」

「あっ、ああ……」

 包囲に飛び込んで来たショートヘア少女は、びっくりしているユキトの胸にタブをはめた右手をかざし、手の平から淡い光を放射した。すると、痛みが引いて傷が塞がり始め、切り裂かれたブレザーやネクタイ、ワイシャツとその下のTシャツまで時間を巻き戻すように修復されていく。

「これって……?」

「《キュア・ブレス》とかって治癒魔法。だけど、レベルが低いから、ちょっとの時間じゃ大して回復させられないみたい……!」

 ユキトは、眼前の汗ばんだ少女をまじまじと見た。競走馬を連想させる栗色の髪を心持乱した少女は、ワイシャツの胸にピンクのリボン、襟に校章のバッジがとめられたキャメルのブレザーとベージュ地に水色チェック柄のミニスカート、白のハイソックスに黒革のローファーという恰好で、ユキトたちと同じ高校生らしかった。

「――あなた、名前は?」

「え? あ、し、斯波、斯波ユキト」

「あたしは篠沢・エリサ・紗季。――」

 紗季はグゥルル……と低くうなって三方から近付く気配にキュア・ブレスをやめ、右手の中にパアッと現れた矢を洋弓につがえると、倒れている潤に目を燕のごとく飛ばした。

「彼女、名前は?」

「あ、か、加賀美さんだよ」

「加賀美さん! 加賀美さん、起きてッ!」

 呼びかけに潤が反応し、五体を引きずりながら四つん這いになる。そして、もうろうとしたまなざしがユキトと紗季をとらえた。

「……斯波君……」

「……」

 後ろめたさからユキトは潤と目を合わせることができず、鋼の右こぶしを無理矢理固め、微かに震えるナックルダスターでグリゴ・デオたちを威嚇した。

「……加賀美さん、早く立って! 僕が何とかするから……!」

「あたしも手を貸すわ。あんただけじゃ無理よ!」

『勝利の可能性は、現在0.08パーセントです』頭上でワンが冷たくきらめく。

「うるさいんだよ! あっち行ってろッ!」

「――来るわよッ!」

 紗季が警告し、左肩に矢が刺さったまま右前方から突進する怪物を射る。ユキトがダウンしたままの潤を守るべく走り、攻撃をはじかれた紗季が新たな矢を出そうとしたとき、ハイソックスをはいた足に背後からかぎ爪の指が巻き付いて引き倒し、下生えの流れをザザザザッと割りながら引きずり寄せる。

「――ちょッ、このヘンタイィッ!」

 洋弓を持つ左手でめくれるミニスカートを押さえ、右手に握った矢で巻き付いた指の外骨格を突く紗季――一方、ユキトは振り下ろされるかぎ爪をかわして怪物の左腰に渾身の一撃を叩き込んだが、逆にワニガメ大のひづめで派手に蹴り飛ばされ、十数メートル離れていた木の幹にしたたか背中をぶつけて下生えの上にどさっと倒れた。

「……げふッ、お、ぐぅぅ……」

 吐いた胃液を下唇から垂らし、内臓破裂したような腹を抱えてけいれんするユキト――ひづめの音に目を上げると、左肩に突き刺さった矢の目印がある影がかぎ爪ぎらつく右腕を振り上げてのしかかっていた。

(――あッ、ぅああッ――)

 絶望で見開かれる目――と、振り下ろされかけた灰色の右腕に炎の塊が特攻し、巨体を僅かに揺らした。

「――ジ、ジョア、ン……!」

「へっ、どうだい、ボクのflameはっ!……」

 膝立ちのジョアンが包囲の外で苦しげに微笑し、再び両手の中で炎を生成するが、それを投げつけるより早く紗季を引きずる個体が先ほどの火傷の仕返しとばかりに脇から蹴りつけ、ラクビーボールのように飛ばして転がした。

「ジョアン!――ぐ、くッ……!」

 全身半ば麻痺したような動きで立ち上がろうとするユキトにかぎ爪の指がグルグルッと巻き付いて緊縛し、引っ張って足をもつれさせる。怪物の前まで引きずられ、つま先立ちにされたユキトは、ブレザーやワイシャツ等を切り裂いて背中や脇腹、太ももに食い込む切っ先に千切れるようなうめきを上げた。

「――ぐォあがァァァッッ……――うばァッ!」

 髪がめちゃくちゃになった前頭部の間近で裂けた口がばっくり開き、鼻がひん曲がりそうな臭い息がぶわっとかかる。顔を背けて必死にもがくユキトだったが、外骨格が覆う指は獲物の骨を粉々にしようとさらに強い力で締め付けた。

「――ぐギャアががガアあッッッ!――な、なゼ、ごッ、ごンなァ――オゴギャアアアアアアアッッッッッッ―――!」


 ――《デモン・カーズ》、発動しました。《デモニック・バースト》使用可能です。――


 頭の中でワンの声がひらめく。ナックル・ガントレットの下――右手の甲辺りに熱を感じ、食いしばるように閉じていたまぶたを微かに上げると、また声が波紋のように響く。

 ――繰り返します。あなたの右手でデモン・カーズが発動したことにより、スペシャル・スキル デモニック・バーストが使用可能になりました。――

(――デモニック・バースト……何だよ、それ……?)

 ――このままでは全滅必至です。どうなさいますか、斯波ユキト?――

(お前ッ……!)

 まぶたを押し開いて左右に顔を動かしたユキトは、同じように締め付けられて苦悶している紗季を、ひづめで蹴られて転がり、かぎ爪でセーラーブレザーごと切り裂かれそうになっている潤を見た。

「――使ってやるよッ、そのスペシャル・スキルッッ!」

 叫んだ瞬間、鋼の下で熱くなった右手から力の奔流が全身を席巻し、次元を超越したようなパワーが堰を吹き飛ばしてあふれ出す。両目を燃え輝かせたユキトはほとばしる力のままに怪物の指に抗い、拘束から外れた両手で外骨格を万力さながらにつかんでバギャッとねじり、締め付けが弱まった隙に抜け出して――

「――ゥオォオオオオオオオオオッッッッッ!――」

 指を折られてグゥォオォッと鳴くグリゴ・デオの下腹部にこぶしの砲弾が炸裂し、いっそう前屈にさせてぐらつかせる。しかし、後ずさった怪物は流動する地面にひづめをめり込ませ、巨体を立て直すと爬虫類然とした顔を凶悪にひび割れさせて、グワァッと牙をむいた。

「……これが、デモニック・バースト……」

『戦闘スキルを爆発的に上昇させるスペシャル・スキルです。これにより、生き延びられる可能性が若干上がりました』

 空中できらめくワンの下、光を帯びたナックルダスターを、ガントレットを見つめるユキトは、スクラップにされかかった体から少しずつ痛みが引き、傷が塞がっていくのに気付いた。

「傷が……」

『自己治癒能力、デモニック・バーストの付加効果です』

「すごい……これなら……!」

 ユキトは足を開いてぎこちないファイティングポーズを取り、うなりを高める正面の相手と、紗季を投げ出し、潤から標的を変えた残りの2体をにらみつけた。

「……やってやる! お前らなんかに殺されてたまるかッ!――」

 吠えたユキトは地を蹴り、紗季たちに括目されながら光る鋼のこぶしを繰り出した――