Mov.1 眠れる森の美少女

『――大まかな説明は以上になります。もう一度お聞きになりますか?』

 前に浮かぶ羊皮紙柄のウインドウに表示される3Dマップをにらみ、たゆたう暗緑の空間をこわごわ歩くユキトの頭上で黄金の球体がきらめく。

「……モンスターを倒してポイントを手に入れ、それで武器やら食べ物やらをショッピング・アプリから購入するんだろ。この体は基本的にリアルボディと同じだから、ちゃんとポイントを稼いで食料を入手しないと飢え死にするってのは、よく分かりましたよ」

 忌々しげに答え、ユキトは這うように流れる下生えを踏み付けた。存在の重みが足元の流れを押さえ、ぎざぎざした葉とその下の落ち葉、湿った土が黒革のローファーを避けていく。海中にいるかのように感じながら進む空間は、先ほどの空間震によるゆがみが残っているせいで視界が十数メートルしかきかず、しかも、枝葉の間から薄汚れた曇天をのぞかせる樹木が海藻のように揺らめきながら少しずつ流れているので方向がときどきあいまいになる。そのため、ユキトはたびたびヘブンズ・アイズの3Dマップを見て、目標――自分と同じく強制転送されてきた者かもしれないUnknownに近付いているかを確かめた。

(……それにしても、マジでリアルを感じないな……)

 歩きながらユキトはリアル――ネットカフェのシングル個室席の椅子に気を失ってもたれているはずのリアルボディを感じようと意識を集中させた。通常、ワールドにトんだ後に残る肉体に生じる尿意、便意や口渇、空腹、苦痛といったものは、アストラル側で感知できるようになっている。そうでなければワールド・ライフに夢中になっている間に失禁したり脱水症を起こしたりし、最悪死亡する恐れさえあるからだ。だが、いくら眉間にしわを寄せて下唇をかんでも、リアルセンスは感じられなかった。

「……本当につながれないのか、リアルと?」

 募る焦燥が前方斜め上に浮かぶワンをにらませ、ついさっき問いただしたことを繰り返させる。

『できません。もう戻らないのですから、知る必要はないでしょう』

 ワンはきらめき、素っ気無く返した。

「悪ふざけもいい加減にしろよ……! こんなめまいがしそうなところにいつまで閉じ込めておくつもりなんだ!」

 鋼のこぶしを固め、ナックル・ガントレットがはまった右腕を振り上げかけたユキトは、3D映像相手ではどうにもならないと歯ぎしりし、ワンから視線を外しておどろおどろしく繁茂する広葉樹の間を黙々と歩いた。

(……本当に切り離されているのか……?)

 拠り所無い感覚に胸が密かに震え、動悸が早まる。ユキトはうっすら青ざめた顔を上げ、硬い声で尋ねた。

「……おい、僕がここにトバされてから、どれくらい経ったんだ?」

『時計アプリは、プリインストールされています』

「そうかよ……」

 舌打ちしてアプリ起動を思考すると、羊皮紙柄ウインドウそばに『時刻 15:47:14 経過時間2:34』という横長の表示が現れる。

「……今15時47分で、ここに来てから2時間34分経ってるってことか……?」

『ご覧になった通りです』

 顔をしかめ、ユキトは無関心に流れていく時間を見据えた。ネットカフェ――サイバードリーム葵店入店がだいたい午後1時だったことを考えると、どうやら日本標準時に準拠しているらしかった。

(……個室レンタル料金が、どんどんかさんでいく……って言うか、そのうち店員が異常に気付いて通報するだろうな……保険に入っているから、リアルボディはちゃんと保護してもらえるだろうけど……こんな事件に巻き込まれてるんだから、明日の物理の小テストや数学ができなくても大目に見てもらえるよな……けど、もしこれがずっと続いたら……)

 いや、ここから出られないというのはただの脅し、そのうちいくら払えば解放するって話になるはず――不安を振り払おうとしたユキトは、ふっと暗くなった目を揺らめく地面に落とし、ニヒルな薄笑いを浮かべた。

『足元ばかり見ていると、危険に気付くのが遅れてしまいます』

 うつむいて歩く少年に注意が降る。

『――くどいようですが、このシミュレーテッド(S)・リアリティ(R)・ゲーム(G)・ゾーンはアストラル保護に関して他と決定的に異なります。一般のゲーム・ゾーンでは、例え銃撃でハチの巣にされ、爆発で五体がばらばらになろうとも痛みを感じないのはもちろん、アストラルが傷付くこともありません。それは人間の魂そのものとも言えるアストラルがダメージを受ければ、深刻な後遺症が残りかねないからです。ですが、ここでは負傷すれば痛みを感じて血が流れ、致命傷を受ければアストラルが消滅します』

「ふん」

 ユキトは鼻を鳴らし、鋼がこすれる音を立てて右こぶしを作った。脅しにびくついていると思われたくない。だから、できるだけ平気なふりをしてやる――それはささやかな抵抗だった。

『――ですから、入手したポイントを使ってバリアを強化し、トレーニングや実戦経験を積んで戦闘スキルを上げていく必要があります』

「そうしなければ、モンスターにやられて死ぬんだろ?」

『はい、間違いなく死にます』

 きっぱりとした返答がしゃくに障り、ユキトは目元をゆがめ、いびつに曲がった唇の裏で歯がみした。怒りがこみ上げる一方、首筋にあてがわれる鎌の刃を感じて怖気が走る。

 ――……死ぬ……――

 ――……死ぬ……――

 頭の中で渦巻くたび、現実味を帯びてくる言葉。揺らめく空間のただ中で動揺がどんどんひどくなり、両足から力が失われてどこへともなく流されてしまいそうになる。

(……死ぬ……か……………………)

 くすんだ鋼が覆う右手で苦しくなった胸を押さえ、ユキトは喉の奥でうめいた。

(……別に構わないさ。生きてたって、どうせロクなことはないんだから……)

 口角をうなだれるように曲げたユキトは、しかし捨て鉢になり切れず、左斜め前にスライドさせた3Dマップ上の白い光点をちらちら見ながら下生えの流れを踏み、モンスターを意味する赤い光点を避けて、陰気な緑のにおいが立ち込める森の海を逃げるように進んだ。

『Unknownとの接触まで、約60秒』

 報告を耳にして3Dマップの縮尺が大きくなり、ぼやけた領域の大半を枠外に消しながら100メートル四方が拡大される。それを見ながらユキトは揺らめきを進み、白い光点が示す場所に奥二重の目を凝らした。

「……ん?」

 暗緑の陽炎の中――人影らしきものが横たわっている。歩を緩めて慎重に近付いたユキトは、明瞭になった像に瞬きし、ほんの数歩先をまじまじと見下した。

「……女……の子……?」

 左頬を下生えにうずめてうつぶせ、流れ落ちる黒髪越しに意識が無いらしい横顔をのぞかせる同年代のスレンダーな少女――襟と袖に水色のラインが1本引かれた白地の長袖セーラーブレザー……裾が乱れたグレーのミニスカート……磨き抜かれたような脚線美を艶めかせる黒タイツ、ブラウンのローファー……――

「……彼女は……?」

『ご本人にお尋ね下さい』

「……はぁ……まったく……!」

 ため息をついたユキトはともかく介抱しようとそばにしゃがみ、左手を遠慮がちに少女の肩にかけて軽くゆすった。

「あの、もしもし……」

 声をかけながら、ユキトは流動の影響で微かに揺らめく美貌に見とれた。黒漆色のロングヘア、京人形のように凛とした目鼻立ち、雪の肌に咲く寒椿の唇――しかし、その横顔はどこかはかなげな幼さを感じさせた。

『ぼんやりして、どうかなさいましたか?』

「なっ、何でもないよ!」

 赤面した顔を左右に振って揺すり続けると、青白いまぶたがぴくっと動き、ほころんだ唇から息が漏れる。そして三日月眉の下で反ったまつ毛がゆっくり上がり、ぼやけた瞳が揺らぐ草の葉を、次いで細長く切れ込んだ目尻に回ってのぞき込む少年を映し――

「――ォおわあッッ?」

 素っ頓狂に叫んだユキトはのけぞって尻もちをつき、自分に向けられる冷たい刃の切っ先に凍り付いた。ばっと跳ね起き、左胸ポケットから飛び出しナイフを抜きつつ両膝立ちになって、えんじ色のスカーフが結ばれた胸の前でがっちり両手で構える少女――その殺気立ったまなざしは、まるで思いがけず敵に遭遇した者のそれに似ていた。

「――ちょっ、まッ、待てよッ!」

 突き出される鋼の右手の平、悲鳴の響きが混じった制止の声――目をぱちくりさせた少女は悪夢から覚めたような顔をし、肝を潰している相手をまじまじと見てステンレス製ナイフを握る両腕から力を抜くと、揺らめき流れる周囲に怪訝なまなざしを動かした。

「……何、ここ……?」

 水晶クラスターのような声でつぶやき、少女はナイフの切っ先越しにユキトを見つめた。

「……あなたは?」

「ぼ、僕は、斯波ユキト……葵乃高等学校、二年……」

 自己紹介を聞き、ブレザーの左胸に刺繍された校章を見た少女は自身に転じた目を見張り、素っ裸に気付いたような顔をした。

「……アストラルが……デザっていたのに……」

「ぼ、僕もそうだよ。勝手にノーマルにされていたんだ」

『このゾーンでは、基本的にアストラルをデザインできないようになっております』

「えっ?」

 自分と少年との間――高みに浮いてきらめく光球に気付いた少女は、反射的にナイフの切っ先を向けた。

「心配いらないよ。いや、いるのかもしれないけど……こいつはワンとかってALで、サポート・ソフトウェアらしい」

「サポート・ソフトウェア……?」

 反った眉が寄る下で切れ長の目が上目遣いにワンを、それから不安定に揺らぐ周囲をうかがう。

「……私は図書館にいたのよ。ワールドの……それなのに……」

「僕もそうだよ。カフェからいきなり……それ、しまってくれない……?」

「え?」

「そのナイフだよ。僕は別に危害を加えるつもりないから……」

 その言葉に少女は黒い瞳をそらし、ステンレスの刃を無言で折りたたむと残丘のように盛り上がった左胸のポケットにさっとしまった。

「……危ない物、持ってるんだね……」

「……護身用よ。ここはゲーム・ゾーンか何か?」

「うん、そうらしいよ」

 立ち上がってセーラーブレザーやタイツについた土を払い落し、胸のスカーフを整える少女に続いてユキトは腰を上げた。山茶花をほうふつとさせる、美しくもどこか寂しげな立ち姿……ほころんだ蕾のように膨らんだ胸……ほのかに匂い立つ少女と向き合っているのが恥ずかしくなってユキトは視線を外し、背筋をしゃっきり伸ばして表情を引き締めると、再び相手を見て気張った声で説明した。

「要するに僕らは拉致されたんだ。解放して欲しかったら金を払えって言うつもりなんだよ」

『金銭を要求するつもりはありません』

 頭上でワンが素っ気なく否定する。

『――強制転送は、ここで暮らしていただく方々を集めることが目的です。他意はありません』

「何が『他意はありません』だ。金目当てじゃないのなら、何のためにこんなところに閉じ込めるんだよ?」

 問いを無視したワンはすうっと弧を描いて降下し、体を硬くする少女の傍らで止まった。

『樹海に生息するモンスターがいつ襲ってこないとも限りません。直ちに武装して下さい』

「……武装?」

「このゲーム、武器を取ってモンスターと戦う系らしいよ」

 引き取ったユキトは、リードする心地良さを感じながら説明した。

「――こいつの話だと、ここには僕らを含めて666人がトバされて来ているらしい。取りあえず、その人たちと合流しよう。ええと……名前、聞いてもいい?」

「あ……そうね。ごめんなさい」

『《アドレスブック》を利用して下さい』横からワンが口を挟む。『お互いに登録すれば、コネクトレベルが上がって通信アプリ――コネクトの通信環境が良好になります。なお、相手に開示される個人情報は、パーソナル・インフォメーションに表示されているプロフィールの項目、つまり氏名、年齢、性別、身長、体重から血統まで――』

「うるさいな。はいはい、それをやればいいんだろ。――アドレスブックってアプリ、開いてもらっていいかな?」

「ええ……開くのは普通のやり方でいいの?」

「うん。頭で考えれば、アプリが起動するよ」

 ユキトが手帳デザインのウインドウを自分の前に出してみせると、少女もそれにならってアドレスブックを開いた。

「で、どうすればいいんだ?」

『難しい手続きはありません。承認し合うだけでそれぞれのアドレスブックに登録されます』

 相手を承認して登録するかを問うダイアログボックスが表示される。2人が『承認して登録』と頭の中で選択すると、それぞれのアドレスブックに相手が新規登録された。

「……へぇ、きれいな名前だね……」

 開示されたプロフィールを見て、ユキトは照れながら褒めた。

「え?」

「『加賀美 潤』さんでしょ? 素敵な名前だよね」

 驚いたように瞬きした少女は自分のプロフィールを開いてじっと見つめ、眉下でそろった前髪を右手の指先で軽く整えると目を上げ、少し堅苦しい口調で言った。

「……加賀美潤、聖奏女学園高等部二年、純血日本人です。よろしくお願いします」

「あ、うん、えっと、あらためまして斯波ユキト、さっきも言ったけど葵乃高等学校二年で、同じく純血日本人です。こちらこそよろしく」

『武装強化を実行致します』

 ユキトのときと同じように潤の全身がほのかな光に包まれ、右手に刃渡り30センチほどの諸刃のダガーが握られる。

『ポイントを使用してバリアをレベルアップさせ、魔法の威力を高める付加効果を持つマジックダガーを購入しました。加賀美潤、あなたには魔法スキルがありますので、魔法攻撃を行うことができます』

「魔法……」

 呪文が刻まれた諸刃を困惑した様子で眺め、潤はユキトに申し訳なさそうな顔をした。

「あの、斯波君、私、この手のゲームは全然やったことないから、足手まといになるかも……」

「心配いらないよ」

 ナックル・ガントレットがはまった右手を挙げて胸の前でこぶしを作り、ユキトは意気込んだ。

「――危なくなったときは、僕が守るから」

 ナルシスティックなものを含んだヒロイックな宣言――恥ずかしくなったユキトは目をヘブンズ・アイズに転じ、マップの縮尺を小さくして森の海――樹海とその外に広がる世界を調べた。

「……南に行けば早く森から出られそうだよ。だけど、他の人間――Unknownが近くに全然見当たらないな」

『キャッチできないだけです』

「ん?」

『空間震の影響、そしてコネクトレベルが低いため、反応を拾うのが困難なのです。加賀美潤をキャッチできたのは運が良かったのです』

「ふぅん。なら、移動途中にいきなり出くわすこともあるのか?」

『相手と距離が縮まれば、反応をとらえるはずです』

「そうか。――じゃあ行こうか、加賀美さん。日が暮れる前に森を出よう。こんなところで夜を迎えたくないからね」

「ええ、そうしましょう」

 うなずいた潤を促してユキトは歩き出した。ついさっきまで心を蝕んでいた影は薄れていた。左斜め後ろを付いて来る潤に生への執着を喚起されたまなざしは、きっと彼女を守ろうと薄暗い樹海の揺らめきを見据えていた。