Mov.2 ニホンザル

(……きれいだよな……)

 ヘブンズ・アイズのマップを注視する潤の横顔を隣から盗み見、ユキトは密かに感嘆の吐息を漏らした。雪の精を思わせる白い肌、繊細に彫り込まれた顔立ち、くすんだ黒水晶のような瞳と椿色の唇――横に一歩動けば肩が触れる距離、加えて先ほどアドレスブックに登録し合ってコネクトレベルがアップしたことで美貌は揺らめかずに見え、えんじ色のスカーフを結んだ胸の前でしっかり両手で握られる諸刃のダガーにどこか危うげなクールさを添えられていた。

「……ねぇ、加賀美さんの通う聖奏女学園って、どこにあるの?」

「え?」

 マップ上の赤い光点――モンスターが近くにいない余裕もあってユキトは話しかけ、一方、尋ねられた潤は少し間を置いてから答えた。

「……滋賀県よ。どうして?」

「そのセーラーブレザー、なんとなく独特な感じだから。別にヘンってことじゃないよ。素敵だと思う」

 自分の発言に照れ、ユキトは目を伏せた。そのため、潤が自分の制服にちらと向けたいとわしげな視線に気付かなかった。

「僕は千葉なんだ。千葉県立葵乃高等学校。ぱっとしない公立の進学校だけどさ」

「そう……ねぇ、斯波君、あなたはもう戦闘を経験したの?」

「戦闘?」

「ここで生きていくには、モンスターを倒してポイントを手に入れる必要があるんでしょう? 私、こういうゲーム初めてだから、少し不安で」

「あ、うん……」

 今の力量では危ないと忠告されたなんて言えず、ユキトは袖の上からナックル・ガントレットを装着した右手を上げ、少し自信無げにこぶしを固めた。

「……余計な戦闘を避けてるから、まだだけど……――僕の場合は、このナックル・ガントレットで殴ればいいんだろ、ワン?」

『はい。あなたには打撃スキルがありますので』

 2人を見張るように飛んで付いて来る黄金の光球が、振り返ったユキトに事務的口調で答える。

『――加賀美潤、あなたには剣スキルと魔法スキルがあります』

「剣は、分かるけれど……」潤は握ったマジックダガーを一瞥し、振り返ってワンを仰いだ。「魔法って、どうやって使うの?」

『ソフトウェアを操作するときと同じように、頭で考えるだけでいいのです』

 ワンがきらめくと、ヘブンズ・アイズのウインドウが横にスライドして潤の前にメインメニューが現れ、パーソナル・インフォメーションの項目から『魔法』が選択されて画面が切り替わる。そこには《アイシクル》という表示があった。

『氷系魔法アイシクル。あなたが現在使える魔法はこれだけです。試してみますか?』

「え、ええ……――斯波君、ちょっと離れていて」

「あ、うん」

 潤は緊張しながらワンの指示に従って近くの木を的にし、左足を引いて半身に構え、マジックダガーを握った右腕を水平に伸ばした。

『マジックダガーを振るのに合わせて魔法を発動させて下さい。ちなみに魔法名を叫ぶ必要はありません』

「……!――」

 ゆらゆら動く広葉樹に据えられたまなざしがスッと尖って右腕が縦に振られると、ダガーの切っ先から現れた氷柱が矢のように飛んで太い幹にドグッと突き刺さり、2人の目を見張らせる。

「すごいよ、加賀美さん!」

「あ、ありがとう、斯波君」

『お見事です。レベルが上がれば、もっと強力な魔法や《スペシャル・スキル》をお使いになれます』

「何だよ、スペシャル・スキルって?」

『いわゆる必殺技です。強力な分、体力や精神力を消耗しますのでご注意下さい』

「スペシャル・スキル、必殺技か。僕も覚えられるんだよな――って、僕はこんなゲームにハマらないぞ。――もう行こうか、加賀美さん」

「そうね。ごめんなさい、足を止めてしまって」

「ううん、いいんだよ」

 微笑んだユキトは再び歩き出し、左隣の潤をちらっと見て鋼の右手を握り固めた。

 少女を、加賀美潤を守る――

 自分をヒーローになぞらえる少年は力強く、しかし、どこか危なっかしい足取りで流動する空間を進んだ。ヒロイックな気分に浸ると、置かれている状況はフィクションだという意識が強まり、恐ろしいモンスターがいるとか、アストラルが消滅するとかいう話からリアリティーが薄れていく。

(……何だかんだ言ったって、ホントにアストラルが消滅したりしないだろ。結局、これはたちの悪い勧誘か、金を取るための脅迫なんだから……彼女といられるなら、もう少しこのまま……リアルに戻れなくてもいいかも……)

 唇をだらしなく緩めたとき、自分たちの方に走って来る足音を耳にしてユキトはぎょっとし、潤がマジックダガーを握る両手に力を込める。揺らめく水面の像のようにゆがむ暗緑の陰から草を蹴る足音はどんどん接近し、たゆたう木々の間に浮かび上がる人影がユキトたちに気付いてあえぎながら叫ぶ。

「――あっ、あの――うわッ!」

 Vネックの黒Tシャツとカーキ色のカーゴパンツをはいた金髪少年――とユキトたちが視認できたところで相手は地面に張り出した根につまずき、派手に転んでしまった。大丈夫かとユキトが声をかけて近寄ると少年はうめきながら体を起こし、痛そうにしながらどうにか四つん這いになった。

「おい、どこか痛めたのか?」

 ワンと後方にいる潤に自分をよく見せようと意識しながら案じ、ユキトは二つ三つ年下らしい少年の前で腰を屈めた。

「……へ、へいきです。ありがとうございます」

 痛みでゆがんだ顔を上げ、少年はユキトに痛々しい微笑を見せた。市販のブリーチ剤で脱色したと思われる、安っぽく、しかも傷んだぼさぼさの金髪……無秩序な前髪がかかる一重まぶたのつり目……肌が荒れ、頬がこけた逆三角顏……恐縮する東アジア系らしい少年は、飢えた浮浪児か哀れな野良犬を思わせた。

「それなら良かった。君もここにトバされて来たんだよね?」

「は、はい。ワールドにいたら、いきなりこんなトコロに……こわくなってハシってたら、どんどんまよって……」

「それで、偶然僕らに出くわしたのか」

 四つん這いで従順に答えるぼさぼさ金髪少年――見下ろしながら優しく、かつ頼もしげに接するユキト――その2人から数メートル離れて立つ潤は、ヘブンズ・アイズを見て不審な色を浮かべた。マップ上には自分、そしてアドレスブックに登録されたユキトのキャラクター・アイコンが表示されていたが、少年については白い光点も何も表示されていなかった。

「……ワン、相手との距離が縮まれば、マップ上に表示されるのよね?」

『基本的にはそうです。しかし、相手がステルス・モードを選択している場合は別です』

「ステルス・モード?」

『自分の現在位置を隠すためのものです』

「!――斯波君っ!」

 振り返るユキトの股間にこぶしがめり込む。全身を保護するバリアのおかげで衝撃はいくらか弱められたものの、金的への不意打ちを食らったユキトは潰れた悲鳴を出して腰から崩れ落ち、股間を押さえながら這うように流れる草の上をみじめにのたうった。

「はっ、ったくチョロいよな、クソったれニホンザルはよ」

 うめく横顔をはき古した感の黒のスポーツサンダルが踏みつけ、爪が汚れた右手の中に光を発してS&W・M500タイプの黒光るリボルバーが現れる。イジゲンポケットから出現させた銃身長8インチの回転式拳銃を握った金髪少年は、撃鉄をガチッと起こすとユキトの頭に銃口を向けた。

「ユダンしてっからバリアがヨワくなるんだよ、バカが」

 踏み付ける右足に体重をかけ、かがんで銃口をぐりぐり側頭部に押し付けた金髪少年は、潤をぎろりとにらんだ。

「おら、まずテメーからポイントよこせよ、ババア」

 潤の目付きがアイスピックのようになり、胸の前で構えていたマジックダガーが右手と一緒にだらりと脇に下ろされる。その気配は、構えているときよりもはるかに危険なものを感じさせた。

「……もしかして、自分の存在を隠してこちらの様子をうかがっていたの?」

「そーだよ。マヌケそうなテメーらニホンザルをどうハメてやろーか、かんがえてたのさ」

 せせら笑った金髪少年は銃口を転じ、踏み付けるユキト越しに揺らめく潤を狙った。

「もたもたすんな。ポイントのやりとりができることぐらい、ワンにきいてしってんだろ?」

「……ワン、あなた、あいつを知っていたの?」

『私は、このゾーンにおられる方々共通のサポート・ソフトウェアです』

 相手を見据えたままの潤の頭上で、ワンは平然と言った。

『――私は同時に複数の場所に存在できますので、あの少年にも並行してサポートを行っております』

「そう……」

「ゴチャゴチャいってんじゃねーよッ!」

 乾いた銃声がとどろき、銃弾が黒髪をかすめて右肩の上を飛ぶ。再度撃鉄を起こした金髪少年は、ひずんだ空間越しの冷眼視に目尻をつり上げた。

「……みくだしたメしやがって……ザけんなよ、クソババアッ!」

 吠え声に潤の瞳が暗く燃え、白い肌とセーラーブレザーが炎を際立たせる。ざらついた葉擦れが聞こえ、瞬き一つで起爆しそうな緊張が揺らめく空間に色濃く漂う。

「……ジョートーじゃねーかッ!」

 ブチ切れてぶっ放そうとした金髪少年が突然飛びすさり、その鼻先を横から飛んで来たソフトボールのボール大の火炎球がかすめる。鋭く下生えを踏んだ金髪少年は右方向に眼光をひらめかせ、ぶんっと右腕を振って銃口を向けた。

「――だれだァッ!」

「やめろ、金髪boy!」

 潤から見て斜め左方向――十数メートル離れた木の陰から若々しい男の声が聞こえる。大人の胴回り以上の太さがある幹を反らし、くねらせて伸びた木々の間をうまく狙って火炎球を放った人物は、二対一じゃ分が悪いだろうと言って銃を下ろすように指示した。

「チッ……!」

 舌打ちした金髪少年は潤をにらむと身を翻し、野の獣のごとき素早さで樹間を駆けてゆがみに紛れた。それを見届けた潤は高く通った鼻から息を漏らし、木陰の人物を警戒しながら小走りにユキトへ近寄った。

「斯波君、大丈夫?」

「……ぶ……だ、い……じょ……うぶ、だから……」

 羞恥と怒りで紅潮した顔をうごめく下生えにうずめ、ユキトはしゃがんで心配する潤にうめきながら答えた。彼女の前で醜態をさらしている自分が情けなくてたまらず、こんな目に遭わせた金髪少年に激しい憎悪が燃え上がる。

(……許さない……絶対に許さないぞ、あいつッ!……)

 きつく目をつぶって眉間に深い溝を刻むユキトは草を踏んで気安く近付く足音、そして潤が立ち上がる気配に気付いてしかめっ面を上げ、歯をかみ締めて下腹部に響く鈍痛をこらえながら体を起こした。

「Hey、you guys 、okay?」

 茂る低木を避けてカフェ・ラッテ色の朗らかな顔が現れ、ユキトたちに十数歩ほど隔てたところで気さくに右手を挙げる。くっきりとして形のいい太眉、南国の陽を思わせる明るい目、癖を感じさせない濃い顔立ちとサイドが短く襟足長めの黒髪ウルフモヒカン――南アジア系らしいハイティーンの少年は、白いドレスシャツにブラックストライプ柄のベスト、グレーのデニムジーンズ、レッドブラウンのレザーブーツを合わせており、仲間とピクニックに来て1人森に踏み入った良家の子息風だった。

「――そこで止まりなさいっ!」

「ちょっ、ちょっ、ちょっ――!」

 マジックダガーの切っ先を向けて警告する潤に、南アジア系少年は慌てて両手を大きく上げた。

「――助けたのにそれはないだろ。ボクは無害だよ、harmlessっ!――おい、ワン、helpしてくれよ!」

『信頼関係の構築は、当事者同士でお願い致します』ワンが3人の頭上できらめく。

「unfeelingだなぁ、お前……」

「こちらにも多少の心得はあります。何かたくらんでいるのなら、けがをしないうちに行ってしまいなさい」

「ハァ……ちょっとhard過ぎじゃない?……――ねぇ?」

 少年はため息をついて肩をすくめ、右膝を立てて腰を上げるユキトに困り顔で同意を求めると、しょうがないなという感じで自己紹介を始めた。

「ボクはジョアン・シャルマ。鶴城高等学校の二年生でseventeenだよ」

「ジョアン・シャルマ……インド系……?」潤が顔立ちや肌の色を見てつぶやく。

「……ずいぶん日本語が流ちょうなんだな」

 ようやく立ち上がったユキトが潤の斜め後ろで言うと、ジョアンは右手人差指で小麦色の頬をこりこりかいた。

「そりゃあボクはJapanese――インド系日本人三世だもの。別に珍しくないだろ。今の日本にはミックスだってたくさんいるんだし」

「ああ……」

 ユキトは少し間の抜けたことを言ったのに気付き、苦笑いした。四半世紀前にWPA――世界経済連携協定に日本が加盟して国籍取得許可制が撤廃されて以降、外国――とくに北朝鮮との統一を果たした韓国、中国、ブラジル、フィリピンなどからの移住者が増加した。ユキトは今までインド系と関わりが無かったのでおかしな発言をしてしまったが、ジョアンのような少年は今やありふれた存在だった。

「……そうだよな」

「そーそー。それじゃ、キミらもself‐introductionしてくれよ――って言うか、アドレスブックに登録し合おう! ほらほら、早く開いて」

「わ、分かった。――加賀美さん、いい?」

「え、ええ……」

 そうして登録し合うと、ジョアンは2人のプロフィールに目を通した。

「ユキトにジュン――2人ともボクと同学年だね。よろしく。それにしても、いきなりトバされたからsurpriseしたよ。ワールドで歴史の授業を受けていて、アトランタのマーチン・ルーサー・キング・ジュニア国立歴史地区にトぶところだった――おっ? What?」

 ジョアンの――ユキトと潤それぞれの眼前に突然モニター型デザインのウインドウが開き、テクノポップなベル音が繰り返される。画面上では着信に応答するかどうか選択を求めており、ワンを見上げたユキトは、これは何だと尋ねた。

『それが通信アプリのコネクトです。誰かが応答を求めていらっしゃるようですね』

「つなげてみましょう、斯波君」

「う、うん」

 言われてユキトは回線をつなげたが、ベリノイズでずたずたの映像と不明瞭な音声が途切れ途切れに流れ、程無く切れてしまった。

「……どういうことなんだよ、ワン?」

『通信状態が悪いようですね。原因は――』

「空間震の影響andコネクトレベルが低いため――ってことか?」と、ジョアンが先に言う。

『おっしゃる通りです』

「誰が、何の目的で通信してきたの?」潤がワンを見上げ、ただす。「ここに転送されて来た人間が今何をしているのか、あなたは把握しているのでしょう?」

「そっか、同時に複数の場所に存在できるとか言ってたもんな。――教えろよ、相手はどこにいるんだ?」

『私が行うのは最低限のサポートのみ。お知りになりたいのでしたら、ご自分たちで動いて下さい』

「……こいつ……!」

 苦い顔をしたユキトは、金的をやられた恥を雪ごうと2人に先んじてマップの縮尺を小さくし、自分たち以外の反応を探して、あっと声を上げた。

「どうした、ユキト?」

「誰かがこっちに来る!」

「本当だわ。Unknown反応よ」

 マップ上に表示された白い光点が、金髪少年が消えたのとは別方向から木々の間を縫って接近していた。速度からすると走っているらしいUnknownにユキトは緊張し、鋼のこぶしを構えて潤の前に出た。

「斯波君?」

「……今度は油断しない。加賀美さんを危ない目には遭わせないよ」

「greatだな、ユキト。よぅし、ボクも負けていられないな」

 ヒューと口笛を吹いたジョアンが前に出て、ユキトと並ぶ。ユキトとジョアンが前列、潤が後列というフォーメーションを取った3人は、揺らめき流れる暗緑のゆがみから迫る相手を待ち受けた。

(――来るっ!)

 樹間に揺らめく人影が浮かび上がり、低木の枝葉にぶつかりながら全速力でこちらに駆けて来る。だんだん明瞭になる像を凝視していたユキトは、広がった金色の翼を認めて目を疑った――